今度出会うときは必然?

 さて、前回からの流れを踏まえて、性別化のマテームをもう一度確認しましょう。

性別化の図

 ここで、女性の側から向かう二つの矢印、それは一方ではこうした《他者》の享楽のメタファーとしてのファルスに向かいます。「どこにあるかが知られているもの」「その所在を把握するための小さな器官があるもの」しかし他方で、そのメタファーの基となる《他者》の享楽、その不安という問題がなければ、つまりその亀裂が無ければ、そもそも女性はその器官へと向かう必要はありません。
 しかしまあそうすると、性別化のマテームにおいて

S(A/) 不安
Φ ファルス

というのは、不安があるから夫が要るけど、夫が居ても(Φ)どきどき(不安)が欲しい?みたいな話に解釈できちゃって、ちょっとイヤなかんじです。ここまで通俗化するのもどうかと思いますが。。。

 では問題は、この不安をもたらす《他者》の享楽、あるいは《他者》の空虚が、どうして女性に予期されるのかということでしょう。少なくとも前回見た限りでは、《他者》の不在、あるいは空虚、それは第二の性(男にたいする女、女にたいする男)ではなく、「異−性」を構成するパロールの場である、ということに関連づけられるものでした。ラカンのタームの中で、それをdire vrai、「真の言」あるいは「真を言うこと」としてみても良いでしょう。


「・・・真の言dire vraiとは躓くものです。何にでしょう。それはすべての男でないものは女である、あるいはその逆であるといった時に使われているような、支持することのできない「あるいは」という言葉において、決着をつけ、疎通するのはこの言以外の何ものでもないということです。/この言は性的関係によって書き込まれうるものが現実的なものの中では欠如しているという穴に吸い込まれてしまうものです。」(1974.2.19)
 さて、この引用箇所で、これまで見てきたような「男でないなら女、女でないなら男」という排中律が、時として支持できないものであること、がまず示唆されます。ちょっと難しいのはその後ろ、決着をつけ、疎通する、です。決着をつける、自動詞のdeciderですが、これはどういう意味でしょう。こういう場合は、並置されているより意味の取りやすい後ろ、疎通する、を見ましょう。この講義の文脈では、疎通とはこのような意味になっています。


「真の言dire vraiとは何かということが帰結してきます。少なくとも、分析的ディスクールの実践によって示されるのは、この真の言のもとに、人は道を疎通させるということです。この道は全くの偶然、時には間違いで、書かれないことをやめる、というところにまで至る何かへと続く道です。私はそうやって偶然性を定義しました。つまり、二つの主体の間で、それは書かれうるもののような雰囲気を持った何かをうち立てるのです。」(1974.2.12)

 さて、ここからは若干推測の領分が大きくなりますが、こう考えてみましょう。男でないなら女、女でないなら男。そしてこれと対になっている「未来に関する決定論」としての原父神話。この組み合わせの中では、性的関係はない、あるいは少なくともそのなかで性的他者としての女性の存在する余地はありません。しかし、ある偶然、まちがい、として真の言が訪れることによって、そのパロールによって、《他者》の空虚が生じます。
 この空虚は不安の場です。それはしかし、同時に女性を異性として構成することになる場でもあり、女性にとってはファルスという弁証法に巻き込まれ、ときとしてそこで「生きた貨幣」として、みずからを昇華させ化身させていくような、そんな場でもあることになります。

 ここで注目しておくべきは、「偶然」という言葉がここに用いられていることでしょう。

 ラカンが、セミネールの20巻のなかで、アリストテレスを踏まえつつ、様相論理についても議論を展開していたことはよく知られています。
 ラカンの議論では、

    
必然書かれることをやめない
不可能書かれないことをやめない
可能書かれることをやめる
偶然書かれないことをやめる
というアレンジが付け加えられているのでした。しかし、ここで「書かれる」ってどういうことさ、とか、かなり基本的なところからして、今ひとつ意味のわからないものでした。まあ書くっていうくらいだからエクリチュールの問題なのだろうし、そうすると無意識における文字がどうちゃらこうちゃらとか、そんな話なのだろうかと、漠然と納得することはできるのですが、とりあえずこの話はまた別の機会に回しましょう。

 しかし、ここまでの議論を通過させることで、いくつかメリットが生まれます。それは、まずラカンの様相論理を性別化のマテームとリンクさせることができるということ、そしてその結果、書く、という問題を一方ではファルスという問題と関連づけ、他方でパロールないしdireと《他者》の享楽という形での発語の問題と対比させて理解できるということです。

 それでは、ちょっと早手回しに、性別化のマテームと様相を対比させてみましょう。なお、誤解のないように言っておきますが、以下の内容は普遍的な様相量化論理を意図するものではまったく、まったく、ありません。あるひとつの具体的な事例においてある様相がある量化と関連づけられることが出来るかもしれない、という意味であって、たとえば不可能なら不可能という様相をある量化記号で普遍的に表すことが出来るという意図は皆目てんでまったく綺麗さっぱりありません。念のため。
 そして、もひとつついでにいえば、ヴリクトほか、義務や禁止といった事項を量化で表現しようとした哲学の流れから見てもまったく違うものになっている、ということも、付け加えておかねばなりません。その意味でも、違和感ありまくりな方も大勢いらっしゃいましょう、とも付け加えておきますね。ですから、あくまでラカンの性別化の外延量表現のひとつの試み、という程度に受け取ってくださいますよう。

 で、ラカンの性別化のマテームにおける様相と量化の対比ですが。。。結論から先に書いてしまいましょう。

∃x¬Φx 必然(少なくともひとつ〜存在せねばならない。ディスクール。) ⇔ ¬∃x¬Φx 可能 (男の実在の可能。発言。真の言)
∀xΦx 不可能 ⇔ ¬∀xΦx 偶然(すべてではない。女性の性的価値の分節化。女性がファルスの機能を知っているということは不可能ではない。)
 なんで?って話になるでしょうが、証明は煩瑣になるのですが、1972.1.12の講義を中心に参照して簡単に、検討してみましょう。

 まず必然から行きましょう。これはクリアです。本人が「問題の『少なくとも一つある』これはある必然性から生じたものである」といっているくらいですから、必然なのでしょう。ついでにいえば、これはこれは「ディスクールの問題」であり、そこでの必然性とは「語られたことdite」しかないとラカンはいいます。direとの対比に注意しましょう。
 そして、可能は「これはアリストテレスの推敲してきたこととは反対に、必然性の反対物」と位置づけられています。この場合の「反対」を、どの意味で取るかは若干微妙なところですが、「『実在しない』とはある一つの発言dire、男の一つの発言によって確証される。」というラカンの発言がヒントになります。これは以前から見ているように、《他者》の空虚に当てられるべきものです。
 偶然はどうでしょう?「不可能と対置されるのは偶然」とされていますから、残りの二つ、∀xΦxと¬∀xΦxが対になり、そのどちらかが偶然で、どちらかが不可能でしょう。
 「¬(∀x)、すべてではない・・・この『すべてではないpas tout』が意味するのは、・・『不可能ではないpas impossible』ということです。」というラカンの言明からは、こちらが不可能ではない、つまり偶然の方であり、残った一方、∀xΦxが不可能ということになります。
 読めばおわかりの通り、この最後、不可能の部分が一番根拠は薄弱で、まだちょっとだいぶんに検討しなくてはなりません。いまのところ言えるのは、「偶然」の逆から迫ること。つまり、女性はファルスの機能を知らないわけではない、の逆から行って、すべての女性はファルスの機能を知らない、ということになるでしょう。


 「女性がファルスの機能を知っているということは不可能ではありません。この『不可能ではない』これは何なのでしょう。・・・必然性が可能性と対置されるのと同様、不可能と対置されるのは偶然性です。ファルスの機能にある女性が議論の素材として現れてくるとき、偶然性の中に、女性FEMMEの性的価値が分節化されるのです。」
 ここで示唆しうるべきことがあるとすれば、∀xΦx、すべての人間は去勢の法に服している、とは「男にはファルスがあり女にはない」というものだとするべきだろうということです。それは象徴的なロジックであり、その限りで「すべて」を作り出す見せかけでもあります。ですが、前回見てきたように、ファルスが媒介機能を果たすべき性的関係において、これは性的関係の不可能に等しい内容です。
 さらにいえば、その見せかけを支えるのは、見せかけではないあるひとつのディスクール、つまり∃x¬Φx、au moins un、少なくともひとつ、です。より正確に言えば、「男にはファルスがあり女にはない」は「すべての男でないものは女であり、逆もまたしかり」という理屈に支えられており、そして、その理屈自体が排中律に支えられており、そのためこの「少なくともひとつ」を必然のものとして必要とする、ということです。ややこしいですが。
 したがって、この必然に可能を対置させること、つまり、それはなくても良かったのではないか、という言が発話されること、そのことが性的関係の可能性を開きます。そこで開かれた《他者》の空虚は、女性が「偶然的に」ファルスの機能を知っているものになることを将来するかもしれません。

 ・・・あんまり説得力無いですかねえ。

 次回は、この長いシリーズにも一応まとめを付けてみましょう。