享楽のメタファー

 
 さて、前回は、《他者》の空虚、という話をしてきました。
 ちょっと整理しておかねばならないのは、こういうことです。われわれは、∃x¬Φx、女性にとってのドンファン的な存在のことを、そのように書いてきました。去勢されてない奴がひとりはいる、ってことですね。
 じゃあ、そいつに愛されることが《他者》の享楽ってことじゃないの?という発想は自然なものです。原父だとしたら、原父の女。
 なのに、ラカンは¬∃x¬Φx(とりあえず、「あるひとりの原父が存在することは、ある段階では、それを具体的に証明する手段が構成されていない」と読んでおきましょう)、そちらのほうに、「女性は存在しない」ということと、「性的関係が可能になる」というときを託しています。なぜでしょう。

 われわれは、さしあたり、いやその空虚の場所にこそ、あるひとつの愛の言葉が訪れるべき場所があり、一回性の性的行為がそのランガージュによって構築された異-性とのあいだに取り結ばれるのだ、と話しました。そして、そのなかで、女性は自己原因的に、その空虚をファルスとしてのおのれに変える、という、昇華にも似た愛のいとなみを尽くすのだ、と。

 しかしまあ、セミネール20巻、性別化のマテームをみてもわかるように、女性の持つ、この「二重化」、そんなにすっきりとは処理されない、ともいえます。そして、その伏流は、すでに60年代から、脈々と流れています。
 以下の引用箇所は1963.6.5、セミネール10巻の時点ですから、いま言いましたように、ここまで議論を追ってきたような性別化のマテームの話とは若干(というかだいぶ)齟齬する箇所があります。ですが、あえて引用したのは、女性の二重性、ファルスと《他者》の享楽、のうち、とりわけ《他者》の享楽という問題がここでクリアになっていればこそ。ちょっと長いですが、まるっと引きましょう。


「聖書風の意味で、男と女が初めて『互いを知る』とき、二人の間に開かれる領域は、その媒介となる領域が空虚であるということから分断されるものです。その領域は、お互いがカバーし、お互いの欲望がその結びつきの場へと互いを引き寄せる場所ですが、ここでその媒介領域となるのがファルスだったのです。これはお互いにとって、ファルスが予期されているときに、互いからをそれを疎外してしまうものなのです。男にとっては、ファルスによる全能という欲望において、女は間違いなくそのシンボルであり、その限りで彼女はもう女ではないのです。女に関しては、我々が発見したことすべてによって、つまりペニス羨望と呼ばれるものによって、ことははっきりさせられています。つまり、女はファルスのことを、それではないもの、つまり対象aとしてしか捉えていないのです。いかにささやかなΦとしてでも、彼女にとってはそれは、彼女自身が想像する他者の享楽の概算結果であるような享楽を与えてくれるものでしかないのです。彼女はその享楽に、心的な幻想の一種を用いて参加しています。しかしそのことで自分の享楽を迷わせるだけです。言い換えれば、彼女がΦを享楽できるのは、それがその場所にないから、つまり享楽の場所に、あるいは享楽の実現され得るべき場所にないから、その故においてのみなのです。・・・ファルスが予期されているところにはないということ、要求されるところにはないということ、つまり性器の媒介的な位置にはないということ、ここにこそ、不安とはセクシュアリティの真理であるということを説明してくれるものがあります。・・去勢とはこの構造の代価です。つまり、真理に置き換わるのです。しかし、これは幻想の戯れでしかありません。去勢など存在しません。なぜなら去勢が行われるべき場には、去勢すべき対象などないからです。だからこそファルスはそこになければならなかったのです。さて、ファルスがそこにあるのは、不安がないようにするために、ただそのためだけにです。ファルス、性的なものとしてそれが期待されているところには、それは欠如としてしか現れません。これが、ファルスと不安の結びつきです。」(seminaire X, 310-311)

 ここで鍵となるのは、「想像する他者の享楽」。女性はそこに参加しています。ファルスはそれに比べれば、その「あるべき場にない」その享楽からもたらされる不安をなだめるためのものにすぎません。性的なものとして期待されるときには、それは欠如としてしか現れない。そして、女性は「その場所にないから」こそ、それを享楽できている。
 では、そのためのメカニズムはどうなのか。ラカンは、身体を他者の享楽のメタファーという言葉を使います。身体は《他者》の場であり、そしてだからこそ、例えば女性で言えば、女性は男性の言葉のなかで、その享楽のメタファーとなるのです。この意味で、《他者》の享楽を女性は感じている。もっとも、そのような《他者》がいれば、の話ですが。以上を踏まえて、次の引用箇所を読んでみましょう。


「身体、それは享楽しうるものです、単に、人は身体を他者の享楽のメタファーにしてしまっているのです。・・・身体の機能、それは我々が常に喚起しているように、《他者》の場なのです。我々はその機能が本当にこの場所に、『君は私の妻』という言葉の中に訪れるのか、つまり女性の身体がその享楽のメタファーになっているのかどうかは、わかりません。実際、それはこうした理由によります。性的行為の中では、問題のカップルだけしか存在しないわけではない。それは、ほかの構造主義者たちも、別の領域でいっているでしょう。この男と女の関係は交換機能に従っているのだということがそのことを思い出させますね。交換の機能には、同時に交換価値というものも含まれます。そして慣例通りに、何かに刻印を押してやると、交換価値が生まれてくる、そんな場所があります。その領域が、ここではいくつかの理由から、交接という役割が自然な形で設立される中に取り込まれることになります。つまり、男性的享楽の上に取り込まれることになるのです。男性的享楽とはここでは、それがどこにあるかが知られているもののことです。少なくともひとはそう信じています。その所在を把握するための小さな器官があるのです。そうするといともたやすく赤ん坊ができると。」(1967.6.7)

 後半からの展開は明らかです。きわめてユニークなことに、男女のあいだでの言葉、そちらはつかの間の、「誰が知ろう」というものでしかない。そこで可能になった性的行為は、すぐにファルスという交換価値、慣例通りに刻印を押された通貨のようなファルスの機能の中に再回収されます。 「生きた貨幣」の議論が、ある意味ではここに位置づけうるものであることは確かです。つまり、それは享楽のメタファーとして、それも《他者》の享楽のメタファーとして、かつ交換されるものとして存在します。
 しかし、ここでは前半も見ておきましょう。「我々はその機能が本当にこの場所に、『君は私の妻』という言葉の中に訪れるのか、つまり女性の身体がその享楽のメタファーになっているのかどうかは、わかりません。」この『君は私の妻』は、ラカンの読者の皆さんにはすっかりおなじみの『充溢したパロール』の代表例です。つまり、このパロールの中には、《他者》の享楽に関して、なにかあいまいなものを残している。それがあいまいになってしまうのは、ファルスという問題がすぐにそこをフォローして、交換という論理の中に組み込んでしまうから。でも、その「言葉の中に訪れる身体」、このつかの間の、はかないスキマを検討していく必要があるのではないでしょうか。

 次回は、この《他者》の空虚、女性が「《他者》の享楽のメタファー」としてのファルスに、生きた貨幣として化身するこの場所が、そもそもどのように生まれるのかを見ましょう。

 

 とはいえ、そこに入る前にちょっとだけ保留を。このあたりの出典は1963-7年の講義。なのですが、60年代から70年代にかけて、ファルスの意味もまた、大きく変わっていきます。
 つまり、交換単位であった、そしてその意味で優れて象徴的なものであったファルスは、享楽という問題を通じて変容します。端的に言えば、享楽を通じて象徴的なものは現実的なものへ移行します。この不安の中で、不安という現実的なものの中で、ファルスという《他者》の享楽のメタファーに、これまた現実的なものであるおのが身体を化身させること。現実的なものの二乗、という風にいってもいいかもしれません。

 例えば以下の引用箇所を見ましょう。


「実際私が示さねばならないのは、属格目的格という意味での《他者》の享楽はない、ということです。どうやってそこにたどり着くのでしょう。手にした意味と、忌々しいファルスを作動させる享楽とがそこで共鳴するのだ、と、非常に的確に私が最初に一気に打ち出しておかなかったら。ファルスとは現実的なものの外在そのものに等しいものであり、私の言う領域の中では二乗されたRということになります。」(Ornicar?, no.2, p.98)
 つまり、交換という構造主義的、ある意味では欲望のレベルにあったファルスは、《他者》の享楽と身体的器官という二重の意味での現実的なもの、という色合いを濃くしていきます。
 次回の検討でも、このあたりはまだ使っていません。まあそれは、また今後の課題と言うことで。。。