閉じられた未来

 さて、前回は言い訳と「お勉強」だらけでした。今回は、それに群盲象を撫ず、な解釈が加わることになるので、混乱は目も当てられません。
 とはいえ、ある程度の基本的なはなしだけでも押さえておくと、ラカンが性別化のマテームで、何をいいたかったのかは何となく理解できるようになります。そのために、浅知恵の恥を忍んで話を進める、ということに、しておきましょう。。。

 男性のマテームの方、これは端的に矛盾対当になります。"Etourdit"のなかでラカンは、どうも例外は普遍を基礎づける、というようなニュアンスでこの矛盾する二つが共存することを正当化しようとしていたように思えますが、これが支持できるものなのかどうかは定かではありません。むしろ、この二つの対が排中律を成立させることを可能にする、という風に読んだ方が良いのでしょう。
 ちょっとわかりにくいかも知れませんが、ラカンの説明はこうです。(1971.12.15)
 順序的にはまず最初に、去勢に服さないものが一つ存在する、ということが証明された、という前提で動いてくれ、というのがラカンのここでの要請です。ラカンの記号の使い方は、この時点では古典的に、ラッセルの量化記号をふつうに使っています。∀が「すべての」、∃が「あるひとつの」。そうすると、∃x¬Φx、これは証明済み、ということにしてね、というのが、ラカンの前提になります。そうすると、これの否定¬(∃x¬Φx)⊃∀xΦx、ということになります。ここは古典論理、ということで、拡張されたドモルガンの法則が適用できますからね。で、前者の命題をPとすると、後者は¬Pですから、この両者のあいだには排中律、P∨¬Pが成り立つことになります。つまり、すべての人間は去勢されているか、去勢されていないひとりの人間がいる、は真であると。ラカンの男性化のマテームは、端的に言うとこれ以外の選択肢はない、としろ、ということです。

 この場合、フロイトのあの原父神話、つまり、原始群族では、女を独占している父(=原父)がおり息子達が同盟を組んでその原父を殺害した、という、あの神話は、ここで否定は¬(∃x¬Φx)⊃∀xΦxという意味である、といってもいいかもしれません。
 原父を殺害してしまった、つまり去勢の機能を否定するxの存在を否定してしまったら、すべてのxは去勢の法に服するものとなる、ということです。∃x¬Φx∨∀xΦx、排中律が成り立つ、とするならば、これはある意味で「すべてのx(男)」というものを何らかの形で考えることを可能にする、といったのはそういうことです。
 多少議論がラフになることをおそれずにいうと、ラカンはおそらく、∀xΦxを出発点にする議論も考えていたような気もします。
 ∀xΦx∨¬(∀xΦx)は古典論理ではつねに真です。そうすると、拡張されたドモルガンの法則から、∀xΦx∨∃x¬Φxも、つねに真と展開することができます。ラカンは「例外は普遍を基礎づける」のような、きわめてあいまいな言い方をしていますが、それはこれを、「もしある特定の関数Φxのケースで、∀xΦxが命題として措定されたのであれば、∃x¬Φxもまた措定されていなければならない」みたいに解釈してしまったのかもしれない、という印象が無くもありません。
 ともあれ、このへんはまだちょっとあいまいです。しかし、その淵源としては二つほど考えることができます。

 ひとつは、アリストテレスの『命題論』における可能の様相です。アリストテレスのそこでの有名なたとえは「明日海戦は起こる」と『明日海戦は起こらない」のどちらかは確実に、必然的に真です。それが排中律というものです。
 しかしそれは、現時点において『明日海戦は起きる、あるいは起きない」と断言しうるということを意味する、と言えるのかどうか。「言い換えれば、排中律はすべては事前に決定されているとする決定論的な見解をわれわれに強要しているように思えるのである。アリストテレスは、実はそうではないと言いたかった。しかし、彼の思考過程は明瞭ではなく、説得力にも欠ける。」(G.H.フォン・ヴリクト「論理分析哲学」(牛尾光一訳、講談社学術文庫、155-6)という指摘が、ヴリクトからなされています。この点で、アリストテレス排中律の普遍的妥当性に対して疑惑を抱いた最初のひとりであり、その検討は中世のスコラ哲学にも受け継がれている、と。
 性別化の議論で言えば、すべての人間は去勢されている、という事実があります。そうすると、「すべての人間は去勢されているか、あるいはあるひとりの人間は去勢されていない」が、ある種の決定論的な見解として強要される、ということと翻訳されるでしょうか。

 で、お気づきの方はお気づきのように、このロジック、ここまで引っ張ってくると、「神の存在証明」によく似てきてしまいます。われわれはつねに不完全なものを見ている。ということは、何かが不完全であると認識している、ということである。それならば、つねにそれ以上の完全性を考えることができるのでなくてはならない。ということはつねにそれ以上の完全性を知っているのでなくてはならず、ということで以下ループして無限に完全なものの存在を導く、というものですね。

 とはいえ、排中律を成立するものとする古典論理では、どちらから行ってもある意味では構わない、ともいえます。問題は、ヴリクトの言葉を借りれば「未来に関する決定論的な見解」が可能になっているという事実です。エディプスにおける男女差、という問題で、わたくしが時制のねじれ、という話を最初に持ち出したのはそのためです。男性型論理では、未来はべつに現在に対してたいした意味を持ちません。



 次回は、女性についてを検討してみましょう。