神の数学

 知らない話に首をつっこむべきではないし、生半可な知識は人に話すべきではないし、まあまあ、大人になると、黙っていた方が良いことのほうが、世の中にはいっぱいある、ということを痛感するわけですが、研究の都合上(しかも、ラカンのように思いつきで無意味に話を飛ばす著者が研究対象であるという世にも哀れな事情で)、どうしてもよくわからない話も覘いて見なければいけなくなる、哀しい状況というのはあるもので、今日がまさにそのときです。前回、ウィトゲンシュタインのながれで、数学における直観主義の話に触れたのでした。今日はその話。

 ブラウアーさん、このオランダの変わり者の数学者さん、「ブラウアーの不動点定理」等々で有名な方でもあるのですが、じつはこれ、ほんとは数理哲学やりたかったんだけど、それじゃ仕事もないし、というので、もう少し数学よりの業績もつくっておかないとなあ、という不届きな理由で書いたのだそうです。ここまでは、まこと共感して余りある事情なのですが、これがとても有名な定理にまでなっているというのが彼我の才能の違い。。。まあともあれ、そうした実績をつくったあとで、今度は本来のお仕事に取りかかったわけでした。見習いたいものです。
 で、1908年、アリストテレス以来の古典論理の法則に批判を投げかけた、のだそうです。
 もちろん、それは実に包括的な体系にまできちんと発展していく、ものではありますが、その全貌をフォローしきることなどわたくしには到底不可能です。(ハイティング代数がどうのとかいわれてもそんなん知らん。。。)ですから、まずは入門向けの数学史の本に書いてありそうなところからとっかかってみましょう。

 しかし、さしあたり、歴史的に言えば、ブラウアーさんの時代背景は、数学が無限にまつわるエトセトラな問題に足を取られて難渋し始めた時代にあたります。とりわけフレーゲと、フレーゲに豆鉄砲を食らわせたラッセルと。その余波のなかで、ヒルベルトほか、いくつかの打開策が模索されます。そのなかで、これ以降ブラウアーさんが発展させていく「直観主義」と言われるシステムも、その一つとしてその地位を確立します。体系としては古典論理に比べかなり制限がきつい体系でありますが、トポロジーだったり、あるいはコンピュータ数学に相性が良かったりと、今日的意義も欠いていない、とのこと。いや、だからってわたしにその評価がきちんとできるわけではないのですが。
 間接証明法の否定、構成可能性と有限性を満たす形式・・・と、その主張はいろいろですが、とりあえず、もっとも強烈なインパクトを与えるものとして間接証明法の否定として、「AかAの否定が成り立つ」ことをすべての命題Aについて正しいとする排中律を認めない、といったということがあげられます。有限集合ならば、集合の各元について性質Pをもつかどうかを調べ尽くすことができるので、認めてもいいかもしれない。しかし、無限集合のときには話が違ってきます。無限個の各元が性質Pをもつか否かを調べ尽くすことはできない相談。でも、確かめていって、Pをもつ元をみつければ話は別ですが、そのような元をまだみつけていないときには、Pをもつ元がそもそも存在しないのか、あるいは、存在するのにまだみつけていないのかを知ることはできません。
 ブラウアーはこういうわけで、無限集合の場合には排中律を、論理の普遍的に正しい法則としては認めないと主張します。さらには、「ある性質をもつ対象が存在する」ということは、そのような対象をみつけるか、あるいはそのような対象を構成する方法が与えられたときにだけ証明されたものと認める、と。 この帰結はちょっと重要です。というのも、二重否定(ラカンの読者なら皆様耳をそばだてたくなるところでしょうが)の扱いが微妙になってくるからです。まずここまで述べたような理由から、「存在しない」という仮定から矛盾を導いて「存在する」ことを間接的に導くような証明を認めない、ということができます。見つけてないのかホンマにないのか、というやつですね。ですからこれは、命題Aの否定の否定(二重否定)からAを導くことを拒否することにつながる、ということになります。でも、逆は真ならず。拒否されるのは二重否定の除去、から存在の肯定を導くやり方、のほうだけです。

 ですから、この問題に関する男女の立場の違いは、直観主義の哲学者、マイケル・ダメットの言葉を借りて、こう言いたいくらいです。引用は「真理という謎」(藤田晋吾訳、勁草書房、1986)から。


反実在論者は第二の原則の「知られ得る」を「われわれにとって、知られ得る」を意味するものと解釈するが、実在論者はそれを「知的能力や観察力がわれわれのそれを超える仮設的な存在者にとって、知られ得る」を意味するものと解釈する。」(42)

 そんなわけで、直観主義に対比させられた意味での、古典論理は(ここでは実在論ですね)「神の数学」と呼ばれたりするのだそうです。tiers第三項をexclu排除するほうの陣営に、第三項としての神がいるというのもちょっと乙な話。とりあえず、直観主義の立場では、たとえば(このあとラカンが使うことになる)論理記号も

∀xΦx、であれば、「どんなxに対してもΦxが成り立つか、または成り立つことが証明されるような具体的手段を持っている」と、
∃xΦxなら、「Φxが成り立つような具体的な対象の一つ例えばnが満たされたか、またはnを見いだすような具体的な手段を持っている。」

という風に限定して用いられることになります。また、¬¬nならばn、という二重否定の除去、肯定への読替が不可能になります。もっとも、nならば¬¬n、は依然として成立しますが。


 そうそう、でもさあラカンがそんな意味で使っていたのか確かじゃないじゃん、というツッコミもありましょうから、一応あげておきましょう。セミネールの第二十巻「アンコール」、94頁の議論をご覧ください。ラカンが自分の性別化のマテームを、はっきりと「直観主義者たちintuitionniste」という言葉を使いながら、ということは明らかに直観主義の議論と関連づけて、考えていることは間違いありません。


「『彼が存在する』と措定するためには『彼が存在する』を構成することも可能でなければならないことだけは解ります。即ちこの存在がどこにあるのかみつけなければなりません。」(seminaire XX, 94)

 ここでのラカンの言葉遣い、構成する、はconstruireになっています。この前後を読んで頂ければわかるとおり、明らかに、ラカンはある程度数学でいう直観主義について知っており、それが無限集合の抱える問題から生まれたことも知っています。おそらくは、フレーゲとその後、という流れで知ったのではないかとも思われますが、とりあえず定かではありません。そしてまた、例によってとりあえず詳しそうな奴をとっつかまえて耳学問する、というラカン流のやり方(ルディネスコの密告による)で、どの程度理論的な厳密さをもってこの問題を把握していたのかもわかりません。しかし、とりあえずセミネール第九巻の時点で、(1962.6.27)排中律が数理論理の中で問題含みになっている、ということを指摘した箇所はありますから、少なくとも10年近くはこの問題を考えていたことは確かです。さらについでに言うと、セミネール14巻の時点で(1967.4.12)、性別化の論理に関しては排中律は適切なのだろうか、という疑念が呈されています。

 では、その目的は何でしょう。引き続きラカンの言明を見ましょう。


「真理からの脱-中心化excentriqueという上手な言い方をルカナティがしていましたが、そのように表現されるあるひとつの存在を措定する心引き裂かれる葛藤を提示するために必要なステップをここに築いたのです。この非決定性という宙づり状態は、∃xと¬(∃x)のあいだにあります。つまり、存在が確証されるある実在と、それを見いだせないものとしての女性とのあいだに。これはレジーヌの症例が確認させてくれることです。」(seminaire XX, 94)

 この発言は、文脈から察するに、あるセミネールでのジャン=クロード・ミルネールの発表にたいするルカナティのコメントに対してのコメントであり、レジーヌとはキルケゴールの婚約者(わけのわからん行動に振り回されたあの可哀想な人です)のことであるのがわかります。ルカナティの発言の詳細がわかりませんから、内容は察すべくもありませんが、問題がヒステリーにリンクしていることは確かです。そして、ラカンの議論は、有限集合ならすべてのxがf(x)ではない、というのなら、あるひとつのxはf(x)ではない、つまり、¬∀xΦx⊃∃x¬Φxだが、無限集合の場合はそうではない、ということを指摘するためのものです。そして女性の享楽という問題に関しては、どこかこの無限から生じてきたものがあるのではないか、と。

ついでに言えば、このあとからの文脈でも出てくるように、この婚約破棄騒動直後のキルケゴールの著作が、ドンファンにも大きく想を得た「誘惑者の日記」であったことは偶然ではないのかもしれません。そして、「誘惑者の日記」を含む「あれかこれか」が「おそれとおののき」へ移行していく、ということもまた。ちょっと先の話になりますが、念頭に入れておいて頂ければ幸いです。

 さて、とりあえず、こうした準備で、∃xと¬(∃x)のあいだ、としての女性の享楽、という問題の中で、つまり、「すべて」の否定が「あるひとつの存在」の確立を導くか、という問題として捉えられているのだ、ということはわかりました。なにやら言葉が一人歩きした観のある「すべてではない」は、単に、「普遍を否定したからと言って特殊が肯定されるわけではない」と読み替える必要があります。そして、ではそこにはどんなロジックが生きているのか、をラカン直観主義をヒントにしながら考えた、ということも。

 さて、そうなると、恒例の問題は、「その場合のラカンの数学的直観主義にたいする認識がどこまで正確だったのか?」ということになります。(ソーカル先生につっこまれたので有名な箇所でもありますしね。。。)
 まあまあ、幸いなことに、というかなんというか、わたくし本人も(一生懸命勉強したと言い訳はするものの)素人であることに関してはラカンせんせい以下ですので、ここは「耳学問直観主義を理解した人がどんな風にそれを理解し応用してみようとしたか、むしろプロより想像がつきやすいかもしれない(プロというのは往々バカが何を考えるか見当もつかなかったりするものなのです)」というところを利点と強弁して、さしあたりわたくしの立場とさせて頂きましょう。そして、「直観主義的な論理を理解・解説」することではなく、あくまで「その話をまくらにラカンがのたまわっていたご託」を理解することが目的なのだ、と。
 ですから当然、「しかし直観主義的な立場からいえば、ラカンの理解は厳密にはここが誤りでありここが誤解であり・・・」という指摘は無理です、ということになりますね。(誰か教えてください。。。)しかし、とりあえず、問題は「この疑似数理論理学を通じてラカンはいったい何をいいたかったのか」の理解なのです、と、さらにくどくどしく弁解もしておきましょう。

 しかし、さしあたり、ラカンのいくつかの概念、とりわけ性別化のマテームの問題を考える上で、この話そしてこの論理形式に、慣れておく必要があるらしい、という必要性だけでもご理解頂ければ幸いです。