幸福の王子

 「すべての人間は去勢されているか、いないかである」
というネタが前回から続いています。
 まあ、論理的にはこの命題は真。だって、そりゃ二者択一の両方を候補にあげているんだから、どっちかには当たるでしょ?というのが、排中律のルール。
 でも、前回は、そもそもこの二つで「すべて」ということになるのか、という問題を考えてきたのでした。とりあえずその男女間のずれを考えるべきだ、というテーゼを正当化するのは、エディプスコンプレックスにおける時制の問題です。男の子にとって、去勢が剥奪として認識されるのはほぼ自動的(取られちゃった奴がいるんだ!ということです)であり、その結果世界のデジタル化(1か-1)が完成するのに対し、女の子の方は、将来人から(まあ、「約束」されたパパの子だったり、あるいは白馬の王子様であったりするかも知れませんが)もらったとき、というか、自分がその人からもらったときに、はじめて剥奪が剥奪として、-1として、完了します。いただいて、はじめてわかる、もってなかったってこと(字余り)。ですから、「最初の男の子」が、この「最初の頂き物」の状況を上手にこなさないと、かつての「もしかしてあたし持ってない人?」という女の子の疑心暗鬼と、それに伴う恨みとを再燃させることになります。フロイトが、最初の男性との後、母親との葛藤が娘に再燃し、それをその男にぶつけるというのはよくある、と主張する(「女性の性愛について」)のは、まあそういうことなのでしょう。おかんがへましたからあたしが持ってない、おかんが親父のを独占してるからあたしが持ってない、おかんが取られて、取られた劣等女であるにも関わらず私を生んだから私にも取られたのが遺伝した(獲得形質は遺伝しないっちゅうに)などなど。

 そんなわけですから、女の子にとっては、この命題はただの命題。去勢されているか、いないかであるというのは、論理的真ですらない、とあえて言ってしまいましょう。それが、命題として証明されること、ないしはそれを証明する手段を持っているということが、ぜひとも必要なのです。それには「約束」が履行される日が来る、そのことが必要になります。つまり、この証明が果たされるまで、自分にはファルスがあるかないか、どちらかでなければいけないなどという単なる論理遊びを、確定した事実として考えなくても良い。しかし、大事なのは、じゃあ「真でも偽でもない命題が存在する」といっていいのかというと、それも違うだろうと言うことです。二値論理を放棄したからといって、どの言明についても、それが真でも偽でもないということはない、ということは保たれています。

 ウィトゲンシュタインは、「数学の基礎」のなかで、排中律に関して面白いことを述べています。


そしていまある人が、「そうだとするか、そうでないとするかせよ」というならば、かれは排中律を語っているのではなく−ある規則を語っているのだ。(285)

 さきほど、わたくしは男の子のエディプスのはなしのなかでちょろっと、すでに、「有無を決定する超越的な第三者」という言い方をしました。誠に困ったことに、排中律はフランス語ではtiers exclu、排除された第三項、という名前になっているのですが(英語だとexcluded middleですね)、第三者、いるのです。

 先ほどのウィトゲンシュタインのノートには、ちょっとした逸話がついていることはよく知られています。「論理哲学論考」を書いて、もうすっかりご隠居気分、哲学は終わったとばかりに(というかそう明言しちゃったのですが)庭師をしたり建築家をしたり、まあ良いご身分、さすが金持ち(っていうか鉄鋼王)の家の息子は違うねえ、そりゃ兄貴も好き勝手に左手用のコンチェルトを大物に嘱託するわな(ラヴェルとかプロコフィエフとか)、という感じ。で、数学における直観主義の発案者、ブラウアーの講演に(ともだちにけつをひっぱたかれて?)出かけていき、それがきっかけで現役復帰を果たし、イギリスで再度活動することになるわけでした。それから15年ほどたった時に書かれた上述の箇所も、この直観主義との対話の跡を色濃く残した箇所として有名、だそうです。

 次回は、この辺の話をちょっとしてみましょう。