愚か者よ


 さて、今日はちょいと一発小ネタ。
 前からちょくちょく、ラカンがファルスの享楽のことを、自慰的享楽、あるいは愚か者の享楽と書いている、ということはお話ししてきました。
 うん、なんとなくわかるような気はするよね(実感)、とはいうものの、でもどういうことさ、という質問から「男の癖に裏切り者!」に至るまで、ちょくちょく問い合わせを受けなくもないジャンルですので、おそらく一番わかりやすかろうという場所を引用してみましょう。


つまり、他者の自慰と、そして主体の自慰、それはまったく一つのことだということです。このことに関しては十分に先に進めてこう言ってみることも出来ましょう。主体自身の中で他者を把握するということ、それは自慰に何か似たものではありますが、そのことの中にあるのは全てはっきりとナルシシズム的な秘密の同一化を想定する、ということです。それは身体から身体への同一化でなく、むしろ他者の身体とペニスの同一化です。そしてこうも言えましょう。愛撫という行為の中全ての部分に見られるもの、それはそこから得られる快感が寄り切りはなされた、自律的な、固執され、つまり時に多かれ少なかれ的を射ていなくもないサディズムと呼ばれるものの中に結びつけられるようになるにつれそのことはますますはっきりしてきますが、それはファルスというものを作動させるものなのです。ここでいうファルスとは既にお示ししたような、自然なものとしてのパートナーを越えたところにある、想像的に浮かび上がるものという意味ですが。主体と他者の関係でファルスがシニフィアンとして関わってくるということは、抱きしめている他者の向こうに探されうるものであるような何かからやってくるものとしてここにファルスが現れる、という事態をもたらします。(1959.1.28)

 さて、そんなわけでラカンせんせいの主張は明快です。他者の身体とペニスの同一化。身も蓋もありません。他者の身体の愛撫、それは時としてサディスティックな色合いを帯びていきますが、それはファルスを作動させる儀式。まあその意味では、女性は身体そのものをファルス化するのかしら、と昔聞かれたあの質問は、そう間違ってないんじゃないかしら、と今なら答えることになるでしょう。あるいは《他者》の享楽のメタファーとしての、性的他者の身体。それが、抱きしめている他者の彼岸から、他者の身体をメタファーにするかたちで具体化される、「向こうに探されるもの」ということです。
 うん、なるほどファルスの享楽って自慰的、ってそういうことか、と納得してみることもできるわけですが、実はこの話にはちょっとおまけ、というかおつり、がつきます。


「私が剰余享楽と呼んだ対象a、それが《他者》への隷属の中で探し求められるものであり、《他者》固有の享楽への曖昧なまなざし以外に何一つあたりを付けられないのです。このリスクと賭けの関係のなかに、対象aの機能があるのです。その享楽に関してはもはやなんの権利もないままに、他者の身体を自由に扱えるという事実の中に、剰余享楽の機能が存しているのです。」(1969.6.11)

 そう、ファルスの享楽って自慰的、というだけでなく、余分、あるいはおつりも付いてきます。お得ですね。それが剰余享楽。有り体に言えば、ファルスの到来を祈願する愛撫(自分の身体にするのか他人の身体にするのかはともかくとして)は、まさに祈願というか、本来何の権利もない『秘密の同一化』の成功の祈願の儀式です。《他者》の曖昧な眼差し以外いっさい手がかりのない、この「秘密の同一化」の儀式が成功すること、それは《他者》の享楽という現実的なものからの、ささやかな返答であり、「現実的なものの小さな欠片」とでもいうべきものです。こうして例によって、この僥倖の副次的な悦びが、いつしか主目的になっていきます。この時点で、またしても男女はすれ違ってしまうことになるわけですね。

 ですからここで、この「自慰的」の意味は少なからず変わってしまうことになります。よく人様にはいうことですし、また何度か書いたような気もしますが、基本的に男性にとってのポルノからAVからスポーツ新聞のヌードグラビア、場末のラーメン屋に貼られたビールのキャンギャルのポスターに至るまで、あれは「汝は汝の義務を果たしておるか、アンフォルタス」という、あの超自我の呼び声なのです。汝はこれを見て勃起すべし、と。個人的には、「これがおしゃれよ」と強迫してくる女の人のファッション雑誌と良い勝負だ、と説明すると女性陣にもわかってもらえるのではないかと思ったのですが、これがまたウケが悪いこと悪いこと、失敗でした。「男の風俗と女のエステは一緒」とのたまわってくれた飯島愛大先生が味方に付いてくれれば、と心底思うのですが、どうでしょう。
 まあそれはともかく、この《他者》の享楽、それは「享楽せよ」という呼び声と同様なのですが、この呼び声に答えて無事興奮したり勃起したり自慰したりあるいは風俗にいったりして快感を得ることが出来れば、それが《他者》の答え、ということになります。性的なアイデンティティはこうして見事に《他者》への隷従のなかで、性的興奮そのものの快感ではなく、性的興奮を実現しうる自分へのご褒美、に変容していくことになります。
 自分が性行為という労働を行って、それに見合う快感を手にするのであれば、それは見事に等価交換なわけですが、この変容によって男性は、とりあえず「立派に性的な私」に対する《他者》からの賞賛の獲得から生まれる享楽を主目的とするようになります。このありさまを見て、ラカンが剰余享楽と剰余価値は一緒、といったとしても、何の不思議もありません。最初の引用は1959年、二つめは1969年と、十年の間隔がありますが、どうもここまで含めて「愚か者の享楽」というべきなのかしら、と考えると、当初の前者よりの解釈はあくまで出発点に過ぎない、とも言えるのかもしれませんね。

 今回も下ネタが多かったのですが、ま、一応そういう感じで、思想史っぽく年代区分とかして見せて、お後がよろしいということにしたいと思います。。。