汝自身の如く汝の隣人を愛せ

というのが、フロイト先生いたく気に入らなかったらしい、という話はよく知られています。
 まあこれをもってして、うむ、精神分析は博愛の心を欠く近代のエゴイズム丸出しの・・・と難癖を付けてみても言い訳ですが、ラカンせんせいはこともあろうにこれを公準の一つとして精神分析の倫理を築こうという、まこと居直りとしか思えない所行で一年分講義を続けたのでした。かの有名な、「精神分析の倫理」のセミネールがそれですね。


「我々は次のことを基盤にすることができます。つまり、フロイトが隣人愛という命令の帰結の前でぞっとして立ち止まる度に出現したもの、それはこの隣人の中に宿る生まれつきの意地悪さです。しかしそれゆえこの意地悪さは私自身の中にも宿っています。そして、私の享楽の心である私自身の心より私にとって隣人(近い)と言えるものがあるでしょうか。それに私はあえて近付こうとはしません。というのは、それに近付くや否や、−−−これが『文明の中の居心地の悪さ』の意味ですが−−−計り知れない攻撃性が出現し、私は尻込みし、踵を返すからです。この計り知れない攻撃性こそが、消し失られた<掟>に代って、ある限界を越えて<もの>へと踏み出さないように私を押さえているもののの重みになるのです。」(Seminaire 7, 219)

「私は私の隣人を自分自身のように愛することに尻込みします。というは、そのことの水平線には何らかの絶えられない残酷さのようなものがあるからです。こういう方向では、私の隣人を愛することは最も残酷な道になるもなり得ます。」(Seminaire 7, 228)

 身も蓋もありません。

 もっとも、ラカンせんせいにも言い分はあります。
 ラカンせんせいは、ここで言う隣人を、じつは直接的かつ全面的にキリスト教の隣人愛から、そしてそれについて論じたフロイトから持ってきたわけではありません。最初のアイディアは、フロイトが『科学的心理学草稿』で論じた原初的な他者でした。フロイトの論旨はちょっと微妙というか、曖昧なものです。人間、この場合は発達論的に認識能力を養っていく幼児が前提とされていますが、その人間は他者、それもとりわけ、養育者のような、彼の身近にいて世話をしてくれる《他者》を把握する、しかし、恒常的な組織体として、≪モノ≫としての《他者》ではなく、その他者の動きを把握するのである、とフロイトは言うのです。
 一見すると、これはよくカマキリとかが、静止しているものは認識せず、それがちょっとでも動いた途端に獲物として認識する、という話に似ています。しかし、フロイトの論旨はちょっと違います。なぜなら、この《他者》、世話をしてくれる隣人とは、同時に自己自身のモデルでもあるからです。つまり、この《他者》の身振りや仕草は、自分の中の身振りや仕草と重なり合い、そして自らの経験を分節化することを助けてくれるのです。

 こう考えてしまうと、一つ問題が生じます。じゃあ、その組織体として、モノとしての《他者》は、動きがないわけですからそれとして認識はされないのですね、と。しかし、同時にこの《他者》は特権的なものでもあり、その動きを自分と重ね合わせるモデルとして選ばれているわけでもあります。認識は動き、つまりいつも「違い」の認識であるとされているのですが、しかしその「違い」はこの《他者》、あるいは隣人という意味で「同じ」であることが認識された相手じゃないといけない。つまるところ、「違いがわかる男」であるためにはまず、「同じ」がわかる男じゃないといけない。でも、その「同じ」とは、理屈上認識はされないことになっている。じゃあこの「同じ」は?という事態ですね。この「違い」はやがて、自分の動きと重なり合わされ、自分自身を理解させる鍵となることでいつしか「同じ」になっていきます。そのとき、元の方の「同じ」 は?ラカンはそれを「異物」と呼びます。そしてこの「主体が名付け語り始めたすべてのものから引き離された最初のもの」(Seminaire 7, 100)との距離、パロールはそれを維持するためにある、とも。
 この話、どこかでレヴィ=ストロース(だったかどうか自信がない)の話を思い出させます。二項対立とはA/Bの対立でも、A/非Aの間の対立でもなく、A/A+xの対立だ、というあの話です。さて、でも本当は誰が、正確には何と、言ったのでしたっけ?心当たりのある詳しいかた教えて下さい。

 そうして考えると、われわれに認識されるほうの、この動きのほうの他者は、いつでも憎しみの対象であると同時に愛の対象でもある、ということになります。私は彼・彼女を愛している。それは間違いない、と私の中の何かが告げるが、私が「認識している」彼・彼女はいつも「違う」の、同じであることを知っているはずなのに、違いしか認識できない、しかしその違いが認識できるが故にどこかで「同じ」であることがわかっているもの、そんな位置に置かれることになるからです。つまるところ、愛していることは間違いないが愛している理由は一つも思いつかず、あるいは言葉に出来ず、気に入らないところなら山のように言語表現できる(たぶん叙事詩が書けるくらいに)、というような感じの他者になるのですね。
 そんなわけで、ラカンがそれをアウグスティヌスのあの逸話、まったくの幼子でさえ、その弟が母の乳房にしがみついている様を見て嫉妬に青ざめる、というアレを、最初の代理的な享楽の換喩、と呼んだことはたぶん正しいのです。その核となる母親は依然として認識されません。あるのは、自分の鏡合わせ、鏡像的同一化の対象であるべき弟と、自らの失われた対象である乳房と、そして欲求不満を与える母親、普通の意味での《他者》というだけ。

次回は、そのはなしの続きをしましょう。