迷惑な隣人

 前回は、「隣人愛」の話から始まって、ラカン的な愛憎L'hainamorationの話へと展開してみました。

 ですから、われわれはいつでも、この愛憎の表裏一体のなかで、その愛憎の対象の中に、真に愛している対象が存在しているのではないか、と考えることになります。そんなわけで、われわれは人を引き裂くことしかできない、というわけで、ラカンはサドの話を「この隣人を見いだすための試み」として持ち出すことになるわけでした。前回の冒頭に指摘した隣人愛の残酷さも、ここに由来します。「それである」のがわかっているのに、「それでない」ところしか見えない他者に対するいらだち。それは他人の中に「何かもっと本当のもの」をイメージさせるが故に、愛を生むことになるのですが、それは裏を返せば「いま見えているのは何かいつもちょっと違うもの」であるという意味で憎しみしか生まないものでもあります。

 もちろん、一方では、鏡像的なイマージュとしてのこの弟は、当然のことながら普通に考える意味での「汝の隣人」たるべきものですし、そして当然汝自身の如くに愛されるべき存在であるはずです。そして、戒律もまたそれを命令しています。そういえば、キリスト教では「神は己に似せて人間を作った」とも言うくらいですし。だとするなら、この最初の「隣人」が神としてイメージされていたとしても、おかしなことはありません。

 ですが、ラカンの論旨はそこから距離を取ります。


「神の死と隣人愛、この二つの言葉は歴史的に繋がっています。」(Seminaire 7, 228)
 どういうことでしょう?すぐにこちらを引用してみましょう。

「人間に魅力を感じさせるのは、イマージュが空のままに残して中空です。つまり人間は、自分がイマージュの中に見ていないもの、捕らえれているイマージュの彼岸、発見されるべき神の空に魅力を感じるのです。・・・神が人間を空の中に置き去りにするのもそこなのです。」(Seminaire 7, 231)
 ラカンがサドの位置を位置づけるのもここになります。「この方向へと進むと隣人の身体は寸断されます。」同時に、他者の中でわれわれが享楽できるのは、部分対象、ということになります。そして、仮に「全体対象」とでも言うべきものがあるとするなら、それはこのサド的な幻想の中の《他者》の身体、つまり、どこまで行っても中空であるが故にけっして破壊し得ない、《他者》の身体、ということになります。

 ラカンは、《他者》の欲望をホロコーストになぞらえたことがあります。この場合の《他者》の欲望、の「の」はフランス語のdeの常として多義的ですが、ここではおそらく《他者》を欲望すること、と、所有格ではなく主格としてとらえられなければいけないでしょう。というのも、これに対抗する倫理はスピノザの「Amor intellectualis Dei 神への知的愛」とされているからです。
 ついでながら言えば、この純粋なる中空への渇望、《他者》への純粋な欲望は、サド的暴力とともに、カントの「パトローギッシュな対象の拒絶」として現れる、というのがラカンの「カントとサド」の論旨の一部でもあります。


「経験が示し、また精神分析がその発見の決定的な瞬間として明らかにしているのは、憎しみがあらゆる隣人愛に影としてつきまとう、という二律背反だったからです。その隣人はまた、われわれ自身に由来する、もっとも奇妙によそよそしいものでもあります。
 この隣人にわれわれのことを知らしめるためには、ただひとつでも隣人から叫び声をあげさせればよい。だからわれわれは、隣人にその叫び声をあげさせようと、さまざまな苦難を隣人に与え煩わせずにいられないのです。カントは、自らのまったくもってブルジョワ的な実践理性が普遍的規範を作り出そうとして、どこでつまずいたのかをどうしてわからないのでしょう。彼の主張の根拠薄弱さは、ひとえに人間の弱さです。すべての人間にとっての、ブレーキなしの享楽を通じて、サドが提示したむき出しの身体が、それを支持しています。そこにはサディズム以上のものがなくてはならなかった。それが絶対愛であり、つまりは不可能なのです。」(La triomphe de la religion, 62-3)
 
 そんなわけで、現代における隣人愛の形態は、鵜の目鷹の目で他人の享楽を探りつつ、「他者から苦痛の叫び声を上げさせること」、それも、サドが行ったように「剥き出しの身体」をさらけ出すところまで進むこと、というのが、むしろ現代の戒律であるといってもいいのかもしれません。

「《他者》とは、閉ざされた結び目であり、叫びがそこをよぎり、穿つときには反響を響き渡らすこともできるのです。フロイトはどこかで、この叫びの持つ穴という原初的な性格の知覚があると書いています。このレベルで彼はそれを分節化し、それをNeben Mensch隣人と呼びました。この乗り越えがたい穿たれた穴であり、我々自身の中に記されているのです。そして我々はそれにほとんど近寄ることもできません。」(1965.3.17)
 その苦痛の叫びの中で、それにこだまする中空の穴を、あるいはその叫びに伴った残響が教えてくれる空間性としての、隣人がそこにいることがわれわれにはようやく感じ取ることが出来るようになるのです。そして、そこまでいくことでわれわれははじめて、われわれ自身のいわば「本来性」としての、失われた神の座にまで到達することが出来るようになります。あるいは、神のあった場所の空ろな空間に響き渡る苦痛の残響をたゆたわせる沈黙のなかにだけ、そのからっぽさのなかにだけ、自らのなかの隣人と、他者の中の隣人を感じ取ることができる、というべきでしょうか。


「「汝の隣人を汝自身のように愛せ」。彼はどこにいるのでしょうか、私自身の中心の外にいる、私が愛することの出来ないもの、それより私に近しいものはいるのでしょうか。・・・それをフロイトのいうところに従えば叫びという、絶対的に原初的なものとして以外には性格づけることの出来なかったものでもあります。このほとばしるような外在的なものの中に、何かが同定され、その故にこそ、私にとって最も内密なものがまさに外部にあるものとして再認せざるを得ないよう強いられるものとなるのです。だからこそ、叫びは叫びとして発せられる必要さえないのです。ムンクの『叫び』という作品の中に私は、この表現の価値がこれ以上ないほどに現れているというにふさわしいものと説明しました。・・・本質的なことは、この叫びは絶対的な沈黙以外のなにも発してはいないのです。この叫びの中心にあるのは沈黙であり、そこで最も身近な存在が今そこに現れいでるのです。」(1969.3.12)