恋人気分

 さて、前回前々回と隣人愛にまつわる精神分析的小ネタを長々としてきたわけですが、それにはそれで理由があります。
 先日U君が興奮して言うやうには、「アメリカ人もスチュワーデスに萌えるんですかね」すっちーはしらんけど婦人警官ものの洋物は見たことがあるよ、と教えてあげたら、さすがは知識豊富な先輩と尊敬されるかなあいやそんなことはあるまい、と思いつつ、さあ、するんじゃないかねえ、とか適当に言っていたのですが、そのときの彼の元ネタはホックシールドの「管理される心」。感情社会学、といわれる業界の古典的名著です。たしかにこの本にはスチュワーデスもといフライトアテンダントの話は出てきますが、うむ、きっとすっちー萌えとかが主旨の本ではないに違いない、という話は内証。

 そもそも、感情社会学、うん、あの「マクドナルドスマイル0円の話ね」くらいにしかわたくしは知らなかったのです。今もそうですが。感情社会学の基本的な立場というのはたぶん、職務内容の一部として求められている適切な感情状態や感情表現を労働者は自己管理する必要があり、それが交換価値を有する、つまり金になる、ということなのでしょう。でもそんなの昔からあるじゃん、というかへつらいで金をもらうのは人類の歴史とともに(大げさ)始まってるよ?というのが、個人的な感想でした。つまるところ、交換価値で等価交換なら別に搾取されてるわけでもないし、仕事の間自分自身の感情から疎外されている、といったところで、その疎外のおかげで内面の自由を得ている事実は揺るぎません。もちろん、ホックシールドの論旨は、この内面の自由の空間を犯すような「深層演技」の圧力が掛かってくる時代になった、という意識があるのですし、だからこそ、この「内面」の領域にも社会的な圧力が関与してきた、という風にその新味を出すことも出来ることはたしかです。

ちなみに、参考までにいうとホックシールドのいう表層演技と深層演技という考え方、簡単に言うと、
表層演技:「彼氏にディズニーランドに連れて行かれたけど、正直今更鼠園かよ。と思ったけど言うと気を悪くするかもしれないから楽しそうなふりをしていた」という女の子
深層演技:「彼氏とディズニーランドに連れて行かれたけど、正直今更鼠園かよ。と思ったけど金払ってつまらないと元が取れない気がするから何とか楽しいんだと思い込もうとした」という女の子

ということになります。
 おそらく、ホックシールドも気づいているように、そこには「本当にそう思い込もうとする」つまり「本心から」ということに、ホックシールドの用語で言えばauthenticityに、あまりにも重きが置かれる社会だから、という問題があるのでしょう。それにしても、「心からそう思わなきゃ」と思うその心は?という点に関して、ホックシールドはこの簡単な指摘以外には手を付けていないような気がします。これはまた後で論じましょう。

 一方では、そう、われわれは「本心」を買いに来たのです。ディズニーランド、われわれは客です。そして人のパフォーマンスやアトラクションを金を払って享受しにきたのです。にもかかわらず、われわれは「自分が本心から楽しいと思うこと」を買いに来たのだから、楽しまなければ元が取れない、と思うのです。つまり自分で「楽しもう」という労働をしないといけません。おまけに、最終的には自分の金を出して自分の感情を買うのです。まあなんてばかばかしい。素晴らしいものを見た、に金を払うのではなく、「自分の感動」を金で買う。しかもそのために自分で結構な努力もする。あら大変って話です。感動が金で買うものだから、感動できないともったいない、元が取れない。つまるところ、「演技をしなければいけない」というのは「感情は金で買うものである」という圧力の問題ということになります。ラカン超自我の命令を「享楽せよ!」であると論じたことが思い出されますね。

 まあそんなわけで、ホントを言えば「感情労働」という言葉をはじめて聞いたときには、絶対「こういう話でしょ」と思い込んでいたのですが。。。とはいえこちらは感情社会学という論旨のメインストリームからははずれた話。というか、ちゃんとした社会学の人は、ん、何の話?と思ったかもしれません。すみません。

 さて、気を取り直して、もう一方では、たとえば「心からお客様に奉仕する」という労働者がいます。しかし、それは労働者がとても不器用にきまじめで倫理的だからその立場を選んだ、というだけとは限りません。客がそれを求めているから、そこを上手いこと引っかけてやればいくらでも儲かる、という事情も見逃せないのです。
 今や人間の搾取の対象は、パッケージングされたスマイル0円(しまった、価値がない・・・)を売るのではなく、もっとプライベートを切り売りするところに来ています。キャバ嬢のアフター、なんかが一番良い例でしょう。「営業上のスマイルじゃなくて本心から俺に気がある?もしかして」という「本心」を男は(ろくに金も払っていないのに)買いたがっているわけですから。あるいは、アフターなんかは切り売りされたプライベートが制度化されて利潤装置になったというべきかもしれません。そもそもキャバクラそのものが、ある限られた空間でプロフェッショナルな女性の奉仕を受けるということより、素人っぽさを残した女性に奉仕してもらうことで、「あわよくば」(つきあえるかも、やらせてくれるかも他もろもろ)な幻想を相手に引き起こさせる、という機構で成り立っています。
 実際にそんな間抜けなキャバ嬢がいるかどうかはともかく、その時点でお店用の表層演技から、やや深層演技にシフトしたところに演技を切り替えなければいけないことはたしかでしょう。じっさい、むかし風俗でバイトしていた知り合いの女の子は、「恋人気分」を買ってもらうのだ、と主張していました。そしてそのときは向こうにその気になってもらえるように自分もそれに近いところまで気持ちを持っていくのだから、とも。今にして思えば、真摯な深層演技を必要とする立派な感情労働者だ!という青年の主張だったわけで、当時そこを理解してあげられなかった点は慚愧に堪えません。でもね、「俺の気分まで勝手にそっちで決めるな」という私の意見も一理あると思うのですが(基本的に補導員のおばさんからキャバ嬢に至るまで、妙に「共感的」な営業さんは苦手なのです)。そう、わたしにとっては彼女の「感情労働」は、じつは私自身の感情の搾取を意図している、と感じられたのです。なんで金を払った人間が、しかも「こんな気持ちになって」という命令(を遠回しに伝えるための猿芝居)につきあわなければならないのだろう、と。それは、「お仕事上の演技の役どころに同一化して、しかもそれを楽しまねばならない」という彼女の強迫につきあうのはうんざりだ、ということです。でも彼女はなんだってあんなにがんばって「お仕事」をして、自分を正当化しなければならなかったのだろう。

 ああ、念のため、これ、わたくし個人が彼女の客だったというわけではありません。ですから彼女の実際の営業内容を批判しているわけではありません。あくまで論理の形式上の疑問です、念のため。