お客様目線なセクハラ


 さて、前回は「感情労働」というのは同時に客の側の感情の搾取から成り立っているのではないかしら、と論じてきました。まあ若干短絡的という気もしないでもないので、話を労働者側の感情に戻しましょう。

 ですが、たとえばより一般的に例えばケア労働、などにしたところでそれはおなじことです。家庭的な雰囲気、がウリなら家庭でやればよろしい。でも家庭ではないのですから、この話には最初から無理があります。しかし、お客はますます「気分」や「雰囲気」を買いたがっていることはまた事実。もちろん、お客様のリクエストに応えないわけにはいきませんから、自分の持つ「家族像」の幻想を売りに行くことになります。
 ここで、わたしはいつも疑問に思うのです。ひとが買いたがっているのは、ホックシールドの言うように、「本来性authenticity」としての感情なのだろうか?と。どこまでいっても、それは演技であることには変わりありません。お客が演技に気づかないと思っているとしたら、役者のがわも相当のお馬鹿さん。やっている側がどう思っていようと、買い手にとっては表層演技も深層演技もそう差があると受け取られるとは思えません。
 ですが、深層演技には一つだけ、表層演技とは違う側面が入り込みます。それは演技者側の持つ「幻想」がそこに入り込むということです。「あなたはなぜその深層演技がふさわしい演技だと思ったの?」ということ。その内実には、本人のプライヴェートな経験や考え方が反映します。

 ですから、逆にお客の側から言えば、言ってみれば演技そのもの、彼女が醸し出してくれる「恋人気分」を買いに行くのではなく、演技の破綻を買いに行く。そして演技の破綻とは個人の幻想が端無くも露呈するときに他なりません。つまるところ「素人っぽさ」という奴です。風俗嬢や援助交際のお嬢さん達に延々と説教しちゃうとか、何でこの仕事してるの?とか聞いちゃうとか、あれ。アレは搾取のヘゲモニーを巡る闘争なのです。恋人気分にのせられてしまうと、今度はお客本人が持っている恋人の幻想をキャバ嬢に搾取されてしまうもの。「自分の幸福な幻想を相手に投影して押しつけて監督主演作品にするのは楽しいでしょう?」なって言っても無駄。それよりは、演技の破綻からかいま見える、彼女が「自発的に」誰に向けて、何を演じ始めていたのかを暴き立てる方が享楽がより大きいかもしれないではないですか。(しらんけど)
 演技が破綻する瞬間だけが、本来性。そして、金を出して買う価値があるのはそれだけ。だからこそ、深層演技を必要とする職業に就いている方々は、それだけこのような「ハラスメント」に悩まされることになるのだろう、と。そうそう、ちなみに前々回のラカンの引用箇所、「さまざまな苦難を隣人に与え煩わせずにいられない」の「煩わせる」もharceler、ハラスメントでございます。

 基本的にハラスメントとは、「相手の幻想の図式の中にあることを無理やり見せつけることによって、相手がそれを望んだのか自分がそれを望んだのかわからなくさせること」だとわたくしは理解しております。(とはいえ、この定義は女性陣に圧倒的に不評だったので、ちょっと考え直さなければいけないかもしれません。。。)もちろん、被害者の側が明示的にそれを意識している必要はないですし、また意識的・無意識的であれそういう願望を抱いていたのだから、といって被害者に責を押しつける気も毛頭ありません。むしろだからこそそれが最悪の搾取なのだと言いたいだけでございます。しかし、この話は次回またきちんと論じましょう、ちょっと脱線気味だし。

 まあそれはともあれ、まず押さえておくべきは、いまや感情というのは最後の植民地なのです。ここまでがプライヴェートという線を引いておけば、その先は「ほんもの」になります。そうすると、その「一線を越えた」ところまで進出できたことで、ひとは「上手くやった」つまるところ対価に見合う以上のサービスを手に入れた気になります。剰余価値ですね。こうして客は代価以上のなにかを、ケア労働者から、あるいはキャバ嬢から、搾取する。もちろん、お店の側も資本家ですから、こんどはその「一線を越えた」ラインを一歩後退させて、今までの一線をシステムに組み込みます。
 わたくし歴史的なことは知りませんが、おそらくこの種の「アフター」みたいなサービスはもともとはキャバ嬢の私的とはいわないまでも個人的な営業努力だったものが、お店によってシステム化された、ということなのだろうと思います。(違っていたら教えて下さい詳しい方)。そうすると、キャバ嬢は一方で仕事上がりの私的な時間をお客に搾取され、やっと開拓した方法論を今度はお店に横領され・・・ということになるのでしょう。もちろん、お店がシステム化してくれることで個人営業に伴うであろうリスクは軽減されるはずなので、その意味では安全保障の代価ということかもしれません。すくなくとも、ケア労働者なんかよりはこの保護案は十全に機能しているようにも思われます。
 いずれにせよ、この防衛ラインが後退する一方であり(今やストリーミングで中継されているモニタルームの中で生活するところまで来ています)、だとするなら最後の私的空間の戦線が身体上、というか身体内、さらには身体的感覚にまで後退して来たって不思議ではないし、リストカットほかの自傷が「痛みこそ唯一のプライヴァシー」という、ヴィトゲンシュタインも真っ青の実践だと考えておかしいことはないでしょう、というのは、これまでちょこちょこ話してきました。でもそれもいつかはリストカットショーに変わるでしょう。このように戦線が無限に後退できるのなら、利潤は無限に確保できて、うん、万々歳ですね。

 さて、渋谷望はその著書「魂の労働」で、ちょっと面白いことを書いています。生産社会から消費社会の転換に伴い、生産と消費のヒエラルキーが逆転し、「消費者の声」を聴くことが重要となる中で、産業労働においても「消費者からのフィードバック」「カスタマーレポート」というかたちで産業労働者の感情に働きかけ「自発性」を引き出すよう促す動きが見られる。つまり、「お客様」の立場に自己をアイデンティファイする必要が生まれたが故に、労働者は第一に全人格が企業へ包摂される危険があります。お客様の目線で、という企業の方針と、自分の仕事をやっぱりお客様目線で監視する自分の仕事方針が一致してしまうが故に、全面的に吸収される、ということですね。第二の危険としては、労働者としてのアイデンティティを維持しにくいという危険があげられています。お客様のためなら、ということで、給料以上の仕事をさせられる、ということですね。テレビドラマを見ていれば、「患者さんのためでしょう」といってストライキを放棄して労働を再開する看護婦さん、とかが感動的に語られたりしますが、そりゃ劣悪な労働環境においておきながら患者本位で働けというのはちょいとばかり虫がよすぎないか?という反省は出てきません。
 ともあれ、渋谷のユニークな点は、「なぜ思い込もうと(深層演技しようと)思い込まねばならないのか」という、ホックシールドでは本来性という価値感をのぞけば若干薄弱であったこの圧力に、ある程度の議論のたたき台を与えた点にあります。同一化の対象の問題ですね。そしてこれはある意味で、「隣人愛の商業的普遍化」と言ってもいいでしょう。

 「お客様目線で」うむ、実に素晴らしい言葉です。でも、ここにフロイトラカンの指摘を思い出す必要があります。これは「汝自身の如く汝の隣人を愛せ」とおなじことです。あなたがお客様であったらそうされたいと望むように、お客様に奉仕しなさい、ということですから。
 この瞬間に、われわれは抵抗の論理をなくす、というのは渋谷の指摘するとおりだと思いますが、その理由は若干別の視点から見ることが出来ます。抵抗をなくすのは、自分自身の幻想にとっつかまるからである、と。それは同時に「なぜ思い込もうと(深層演技しなきゃと)思い込んだのか」について、ホックシールドとも渋谷とも関連しながらちょっとずれる見解を示すことにもなりましょう。そのために、下ごしらえとして長々と隣人愛の話をしていたのですから。

 さて、ラカンせんせいは、十戒ってのは実によくできている、全部が見事に関連し合っていて無駄がない、と感嘆するのが常でした。さて、そんななかで、たとえば第十の戒めは、隣人の妻、奴隷、家畜等々を欲しがってはいけない、と述べているわけですが、ラカンせんせいそれについて一言。


「この掟は、少なくとも隣人の妻に関して毎日この掟を犯している男の心の中に常に生きています。この掟は、ここでの我々の対象、つまり「das Ding」と恐らく何らかの関係がある筈です。」(Seminaire 7, 100)

 またしてもおっさん。。。
 次回はそれについて考えてみましょう。