ハラスメント的連帯?

 さて、前回は、十戒の第十番目、隣人の妻、奴隷、家畜等々を欲しがってはいけない、という掟についてのラカンのコメントで終わったのでした。この掟は、少なくとも隣人の妻に関して毎日この掟を犯している男の心の中に常に生きています、という、これまた身も蓋もないアレです。

 そう、われわれはつねに心の中で隣人の妻を姦淫している。つまり、隣人の享楽を、隣人がその私的な空間の中に囲い込んでいる享楽の対象とおぼしきものを、うらやみ、横取りし、姦淫している。
 ですけど、それを一種の性悪説のようにとらえてしまっては意味がありません。いま、われわれが他者の中に自分たちと同じであるなにかの「もの自体」を見つけるためには、もうこの嫉妬と苦痛の搾取しか手が残されていないのです。つまり、相手の「享楽のモード」を露呈させ、そのことを今度は自分が享楽する以外の手を持たない。
 ラカンが"Le triomphe de la religion"のなかで幻想に与えた定義は「《他者》のレベルで、自分が望むものを経験している」(59)ですが、「他人の身になって考える」隣人愛とは究極のところ、この他者の享楽の場所に我が身をおいて(ということは、他者の享楽を簒奪して)みることにほかなりません。裏を返せば他人はいつも俺の享楽を横取りしている、ということですが。
 極簡単に言えば、われわれの連帯の可能性とは嫉妬以外のなにものでもない、ということです。その意味で、われわれにとって「ほんもの」の感情とは今や嫉妬享楽だけなのかもしれません。この美しい隣人愛が、われわれを互いに同志として結びつけています。いまやわれわれの社会的連帯とまでは言わずとも共感の形式は「ハラスメント」だけ、というのは、新説ではありますが(たぶん)すごくウケが悪そうなのでネタということにさせていただきます。

 まあ変な話ですが、壁にべたべたとエロポスターが貼ってある職場があったとしましょう(うちではない、念のため)。
で、女性社員に対してはこれは当然セクハラです。でもここで、「相手の身になって考えてみなさい」というのは意味を持ちません。なぜなら、貼っている奴等は既に相手の身になっているからです。それは「わたしはこの職場で数少ない女性であり、周りの男性は当然わたしを性的な目で見ており、つまりはこのグラビアの女性たちを見る目でわたしを見ている」という彼女の身になっているからです。ですから、あとははしごを外して、それはあんたの勝手な思いこみ、と切り捨てるだけで良い。自己責任、ってやつですね。
 彼らが楽しんでいるのは彼女を性的な対象として、そういう目で見て楽しむことではありません。彼女の幻想を引き出して誘発させて、という、そのこと自体が享楽の対象なのです。つまり「あなたの勝手な思いこみ」が見たいのです。そしてそれはダイレクトに「お前自身がそれを幻想していたんだろ?いまその幻想の願望が露出したんだろ?だったらそれを認めてみんなで享楽しようよ」という、きわめて超自我的なメッセージにたどりつきます。
 話はもっと露骨なケースでも一緒。そんなわけでセクハラの決め文句は「どうするかわかるよね?」「何をしたらいいのか分かるよね?」「(断ったら)どうなるか分かるよね」なのです。俺の身になって考えてみろ、ってことですね。そして厳密には「俺の目から見たお前はこうだろうという、いまお前が享楽しているお前の幻想を今露呈してみろ、それを一緒に享楽しようよ」ということです。(今は亡き矢野暢先生貴重な資料提供ありがとうございます)

 フロイトならずとも、ぞっとしてみていいのではないでしょうか。

 だからこそ、われわれの共感の形式はハラスメントしか残っていないのかも、という、ちょっとペシミスティックなネタにもなったわけです。そして、「お客様目線」が人の抵抗能力を奪う原理もここにあります。

 いずれにせよ、それがわれわれの幻想です。つまり、われわれの幻想はつねに隣人の幻想を搾取する幻想なのです。ですが、人間騙されるのは妙な期待があるとき。つまり、この幻想の空間にぴったりとはまってしまうときなのです。キャバ嬢の例で言えば、カモな客がキャバ嬢にひっかかって大金を巻き上げられるのは、「いつか本気になって恋人に(あるいは「一発やらせてくれる」)」というかたちで、彼女が自分にたいして抱いてくれるかもしれない「本気」という、いたって私秘的な感情の領域、幻想を搾取しようとしている自分の幻想の故にです。つまり、キャバ嬢に「あなたの勝手な思いこみ」を引き出させられているわけですから、あなた、キャバクラにいって、相手が営業モードではなく恋人モードみたいなそぶりを一瞬でも見せたら、キャバ嬢をセクハラで訴えなさい、といいたいくらい(敗訴決定)。「お触りは別料金ですよ!」と陽気に宣言してくれる人を信用しなさい、って話です。
 逆に、大金を巻き上げているキャバ嬢がその客にストーキングされて抜き差しならない状況になってしまうとしたら、客のその「本気」の願望を搾取する享楽が自分の幻想、つまり「コイツからはまだまだいっぱい引っ張れる」にぴたっとはまりこんでしまうが故に、適当なところで距離を取って切り上げることができなくなってしまったからでしょう(たぶん)。逆に言えば、「お客様目線」という論理では「お前も俺の立場だったらおなじことするだろう?」という超自我的な声には対抗できない、ということです。

 ですから、構造的には感情労働とは、売り手の側から言えば、客の側から引き出すべきは、「プライヴェート」という本来性を搾取したい、いやできるかも、いやせねば!という幻想を、ということになります。つまり「勝手な思いこみ」を誘発することにその神髄があるわけですね。その利点は簡単。客が「自発的に」金を落としていくようになるからです。客の勝手な思いこみと期待で。わたし、責任とらなくていい。自己責任です。ですから深層演技とは客のこの自発性、幻想を誘い出すために、相手を罠に掛ける目的で、餌として「本気」「プライヴェート」をちらつかせるのです。ここには幻想の搾取があります。もっとも、例えば若いケア労働者が「甲斐甲斐しい息子の嫁」くらいの家族幻想を振りまいておじいちゃんの世話をしようとしたとしましょう。それはもちろんおじいちゃんの家族幻想を引き出すことで、おじいちゃんの行動をおじいちゃんから自発的に出てきた「型にはめ」させることで、関係性を単純化し、仕事の手間を省くことに意味があるわけです。搾取ですね。
 他方、買い手の側から言えば、目的は相手の本来性を搾取すること、つまり「深層演技」そのものだけではありません。もちろん、自分の幻想のストーリー通りに相手が動いてくれる、という享楽も捨てがたいものはありますが、それだけではちょっと弱い。
 むしろ「深層演技の破綻」としてのプライヴェートを搾取すること、つまりはハラスメントそのものに目的があるのかもしれない、というのがここでのミソです。それは、「『俺がお前をこう思っている』という思い込んでいるお前の幻想を明らかにしてみろ、それを俺に売れ」ということです。簡単に言うと、「深層演技そのものを支える幻想の枠組み」を。ここにも幻想の搾取があります。「あれ〜、君はそれを僕が望んでいると思ったみたいだけど、それは君の思いこみ、だからこうなったのも君の自己責任なんだよ」という奴ですね。さっきのおじいちゃんの話でいえば、ところが、ケア労働者の誘惑に乗っておじいちゃんがその幻想を狙い通り全開させたら、あに図らんや義父と嫁もののポルノストーリーがその家族幻想だった、なんて失敗もあるかもしれません。でもおじいちゃんの言い分としては「家族の幻想を引き出させたのは君の方じゃないかね。そしてその幻想が君の思いこみとぼくのそれとが食い違っていたというだけさ。もともと幻想を払え!といってきたのは君なんだから、君の責任だよ」ということになりますから、文句も言えなくなる。
 この時点で、売り手・演技者の側は、「それが自分の勝手な思いこみだった」という罠に掛けられ、抵抗の論理を失うことになります。クレーマーさんの必殺技は「あなたが僕の立場ならどう思いますか?」(某芝事件の方貴重な資料提供ありがとう)だというのも頷ける話。

 いずれにせよ、基本的戦略はどちらも「相手が勝手に」という自発性を誘発するところにあります。それが、隣人愛ということの意味です。「相手の身になって」という言葉上の類似に、ラカニアンなら思わずそういう誘惑に駆られるかもしれませんが、隣人愛を鏡像的な同一化と考えてはいけません。鏡像的な同一化は基本的に、同一化を支える《他者》の視線が不明瞭だからこそ、お互いがお互いに早手回しに飛びついて、お互いの彼岸にその答えを探すこと。他方、この隣人愛では、相手がこの隣人と自分との関係をどのように幻想しているのかを露出しろ、という命令、そこから何を享楽しているのかを詐取することでしかないのです。この瞬間、享楽のモードを露出させられた側が感じる感情が「恥」であることは言うまでもないでしょう。それは自分を支えていた幻想が無でしかないことに直面させられる瞬間だからです。


『君は私である無に過ぎないtu n'es que ce rien que je suis』(1967.1.25)

 隣人愛の行き着く先がそこであることは、こうして理解されます。
 次回はその辺からまとめに入りましょう。