自主性の尊重

前回は、幻想の搾取、という話をしてみました。それがわれわれの隣人愛の形態である、と。そこにあるのは「奴の幻想を暴き立ててそれを享楽しよう」というメカニズムです。その際の決め文句はある意味自発性・自己責任。深層演技者の側も、また客の側も、互いに「相手の勝手な思いこみ」をいかに誘発し、そしてそれを享楽するかが勝負勝負、という話でした。プライヴェートと本来性、というセットは、そのための罠・誘い水として機能しています。

 というか、恋愛妄想から境界例タイプ等々のより病理的なニュアンスが感じられるようなケースはさておくとして、割と普通の恋愛の延長でストーカー問題が出てくるときというのは、大体においてこの「わたしは何もしてない・言ってないのに向こうが勝手に呉れた」(つまりは「むこうの勝手な思いこみ」というわけです)そして同時に「でももうちょっと何か良いモノ引っ張ってこれるかも」とか「もったいないから」とかいう暗黙の期待(つまりは自分の幻想)、から成る一挙両得みたいな打算を抱いているが故に泥沼化するまで気づかない、というケースが多いよなあ、というのは個人的な感慨。それは一方で「思いこみの搾取」というかなり恨まれる行為であり、他方で「その他人の思いこみのストーリーの中に自分から、我と我が身を置いてしまっている」という点で、もの凄く危険だといつも思うのですが、当人に言ってもそれになかなか気づいてくれないところが難しい。ドゥルーズ風に「他人の幻想を生きるようになったら、もうおしまいだ」と言いたいところです。もっとも「愛があるならそれも良いよ」と付け足して良いのかどうか、それはわたしには分かりません。ドゥルーズ先生ならどういうでしょうか。
 ま、それより「他人様のいわれのない御好意(金品も行為も)は受け取ってはいけません」という古典的教育で十分だ、って気もしますけど、社会全体が「搾取すべきは他人の感情である」と言い募る時代にその教育は無理かもしれません。少なくとも、もの凄く社会競争や資本の原理に乗り遅れそうな人間が生まれそうだし。。。
 ま、簡単に言うと、われわれは他人に対して、他人の中にある「ほんとうのもの」を、代価を払わずに、ということは剰余価値として搾取する、小さく投資して大きな利潤をゲット!という期待しか抱いていないが故に、その幻想に自分自身がとっつかまってしまう、ということです。そして、その搾取の背景にあるのは基本的には憎悪です。金で愛を売る女なのだから余分にかすめ取ってやって得をした気分になりたいという憎悪、金で愛を買えると思っているスケベ面の間抜からは、いくらむしり取ってやっても良いという憎悪。どうしてお金とプライヴェートのケミストリーは憎悪しか生まないのかは、一見当たり前のようで結構真剣に考えてみなければならない別問題だといつも思うのです。というか、これはもう「憎悪」というより破壊欲動のようでもあり、相手の底の底までたどりついたらどうなるのだろう、という強烈な欲望に突き動かされているようにも思えます。
 たぶん「幻想の搾取」というところにヒントがあるのではないかなあ、と思うのです。深層演技の代償は憎悪である、と。それも売り手買い手双方にとって。そしてそれが「隣人愛」にはぞっとするところがある、というフロイトの言葉の意味であると。
 逆に言えば、感情の自発性を諦めて、すべての感情は金で買うものである、と割り切れば、この憎悪は少なくとも客の側からはなくなるのだろうか、とも思いますが、それはそれで寂しい感じ。

 ただ、もうひとつ問題として指摘しておくべきなのは、われわれにとって価値があるものが「本当のもの」であり、その本当とは「他者のプライヴァシー領域への侵犯」によってのみ見いだすことが出来る、という信念です。そのために、われわれはどこまでも人の中、人の中へと踏み込んでいき、搾取できる領域を拡大していこうとしています。

 お客様目線、という、この「隣人愛」は、そのリミッターを簡単に外してしまいます。しかしながら、感情労働者の方もまた、「お客様目線」に立つことで、我と我が身をこの「ほんとう」の論理にとらわれの身においているが故に、「お客様目線の自分」を演じるという見かけとは裏腹に「自分自身の幻想」を売り出す羽目になり、それゆえにある種の「自業自得」と責め立てる超自我の声を前に抵抗の論理を自ら失ってしまっている、というのが、さしあたりの見解。そんなわけで精神分析が「隣人愛」に深い懸念を抱いているのは、今でもそこにアクチュアリティがあるのではないかなあ、と、ま、そういう感じでしょうか。。。


「その神聖な掟を主体は十分に意識していることもありますが、それを踏み躙ることによって何らかの享楽が発動されるのでしょうか。こういう奇妙な過程が主体において作動しているのを我々は知っています。それは、正体不明の成り行きという試練に晒されることと言うこともできましょう。またそれは、危険に引き寄せられ、後でその危険の力によって自分がむしろ保証されているのだと思う危険のようなもの、とも言えましょう。」(Seminaire 7, 230)

 そう、いったんこの享楽に捕まってしまうと、それはエスカレートする以上の結果を持たないのです。だってむしろその力が自分の力であるように感じられるのだもの。あとはその力に引きずられる一方です。

 最後に、ラカン自身による『汝の隣人を汝自身のように愛せ』の意味づけを記しておきましょう。


「それはこういう意味です。だれにたいしてであれ、あなたは欲望の持つ完璧な破壊性という問を立てることができる、だれにたいしてであれ、ある存在に問うことによってあなたがどこまで達するのか、つまりあなた自身のためにその存在が消滅するという危機にまで達する、という経験をあなたはすることができる。」(seminaire 8, 460)


 こうして素人臭く長々書いてきましたが、もちろん、もっとケア労働者とかそういうメインストリームを扱わないと、という苦情もプロからはあるだろうなあ、という気もしないでもありません。というか、風俗だと売り手・演技者側も客から搾取してるんだよ?という話をしやすいのですが、ケア労働者の場合はちょっと微妙なのです。というわけで、その辺は保留。
 それはそうと、今回やたら風俗ネタ中心になったのにはそれ相応の事情があります。
 後輩のU君ってば「感情労働のインタビュー調査」を名目にキャバクラ通い(出来れば公費で)できないか悩んでるんですよ〜、とM先輩に報告したところ、「ああ、僕はもう風俗嬢の聞き取り調査やってるよ」(私費かつまじめな調査です、念のため)
 
 あんたら学問を楽しみすぎです。。。