ゴミ存在論

 ラカンせんせいが案外ゴミ好きであったという話は、一部では有名です(いや、ちょっとうそかも)。
 とはいえ、例えば対象aと呼ばれる重要概念を担うものの一つは糞便です。これ、一部のマニア以外にとっては、たぶんゴミでしょう。だとするなら、なるほどわれわれはゴミを崇める生き物であることよなあ、ということになります。なぜでしょう?


aについては我々は、それをゆがんだ見かけ、つまり、犬に投げられたり、ゴミ箱行きになったり、共通の対象のくずになったりするものとして語りました。ほかにいい場所がないのです。(1963.1.16)

 ですから、ラカンせんせいが出版に関してpoubellicationという造語をでっち上げていたからといって、けっして悪い意味ばかりでないことがわかります。セミネール20巻で使われたことで有名になったこの「ごみ箱行き出版」、初出はおそらく1965.12.15ですから、ラカンせんせいとしてはかなり練りに練った(?)自慢のネタだったことがわかろうというものです。


「書くことと出版とは同じことではありません。・・・人はどこかで出版をするということもあるでしょう。書かれたものと、こうして対象aと密接な関係を持つようになったものが予期せぬ偶然の結びつきを持つとき、そのことで、書かれたものの計画の中にない出会いがゴミ箱poubelleという様相を呈するのです。早朝家に戻ってきましたとき、ゴミ捨て場と、そこに通い詰めているものを見ました。何の利点があるのかは知りませんが、そこからものを盗んでいる夜の存在は大変に魅惑的です。私は長いこと、どうしてかくも本質的なものがいとも容易に知事の名前で保護されているのかと自問しました。そこにはすでに通りの名前も与えられており、祝福されるに十分なものです。そこで私が思ったのは、このゴミ箱という言葉はこのことと非常に正確にぴったり行くのではないかと思いました。それはこのことがpoubellicationと親近性を持っているからなのです。」


 出版の話はさておくとして、あらあら、ホームレスのゴミあさりがそんなに魅惑的に見えたのですか先生、とは聞いてみたいところです。ちなみにこの話、「精神分析家とは他人のゴミあさりである」という初期ラカンの立場を理解しておくと楽しみが増すかもしれません。ついでに言っておけば、ラカン的な《他者》とはこのゴミ捨て場としてはじまったのでした。


《他者》とはこの知の想定の表象代理representants representatifsのゴミ捨て場なのです。そして、我々はこれを無意識と呼んでいます。(1961.11.15)
我々は《他者》に自分自身の身体を通じて、持っているものを与えるのだということです。つまりそれを《他者》の領域に置くのです。これはゴミ捨て場か下水処理場のように考えられています。(1966.6.8.)

 もっとも、分析家の位置が《他者》から対象aに移り変わるという理論的なスタンスの変化に伴って、分析家は「ごみ箱」から「ゴミ」に変わることになります。まあこれは余談。

 まあそんな小ネタはともかく、ゴミは人間存在の真理そのもの、ということは、実はわれわれ自身もよくなじんでいることではあります。実際身近なところでは貝塚に始まって、あらゆる考古学は基本的にごみ箱あさりです。いや、べつにそれは考古学の悪口ではありません。むしろ、人間の真に人間的な活動はゴミを残すことであり、だからこそゴミを発見することが人間存在の確認の証、ということになるのでしょうから、そのお仕事は当然そうなるべきなのです。この理屈はもっと身近なところではストーカーさん達の間に生き残っていて、そんなわけでかれらは他人様のゴミあさりに精を出すことになるのです。実際わたくしもかつで月1万円の貸間スタイルの下宿屋に下宿をしていた頃(3年前です。昭和の物語ではありません、念のため)共用の台所にゴミを捨てながら「これ全部チェックされてたら俺の生活全部わかるよなあ」と思ったもので、そのときはじめてストーカーさん達の気持ちがわかった次第です。もちろん、齢90になる下宿屋のおばあちゃんは、律儀に2日に1度きっちり掃除をしてくれる大変なはたらきもの、そのような気持ち悪い嗜好とはまったく無縁の方でしたから、何の心配も要らなかったのですが。なにはともあれ、ゴミを崇めることが間違いでないことは、ここからも理解できます。それは、あなたの生きた証、あなたのすべて、ってわけですね。


道を渡っていけば、キャンプ場がありますし、あるいはより正確には泡のような印のついた円の周りで見つかるものといった方がいいでしょうが、そこでみなさんが出会うのが、この人間存在です。それが現実的なものの中に再出現します。これはゴミ(デトリタスdetritus)といわれています。(1967.1.11)

 ゴミと人間存在、次回はその話を引き続き。