déshabillez-vous!

 前回からの流れでいいますと、人間存在の等価物がゴミ、ということになってしまったわけでした。
 このことはわれわれの日常とさほど遠いものではありません。基本的に、消費社会というのはゴミを作ってゴミを売り、そしてゴミを捨てるものです。最近ではリサイクルもしてくれる。それはみなさま、おそらくゴミ捨ての日に実感なさる通り。われわれがそれなりにまじめに稼いでも稼いでも、それは全部ゴミの日にそっくりそのままサヨウナラ。というか、ゴミの日になると自分がその一週間に買ったものがほとんどすべてそこにあることに愕然とするものです。永久財て言葉もあるじゃない、と言いたい方もありますでしょうが、ソニータイマーのおかげで家電製品もすっかり使い捨て、ということがはっきりした昨今、すべてがこの方向に吸収されていくことは間違いないことでございましょう。大体、一回しか使えないもの、ってのは、むかしの人だったらそんなの「ジャンク品」って言いましたよ(今でも言うけど)、と、いつも思うのですが。
 使い捨て、ということは、はじめからゴミを買っている、ということに他なりません。でも、ゴミになるまで時間が掛からない、ということは、言いかえれば消化に時間が掛からない、ということでもあります。逆に消化に時間が掛かる代物が骨董品ということになりますが、これは立派な糞便、という意味で対象aとなり、価値が出てくるということなのかもしれません。さらにいえば、すぐにゴミになる、ということは、すぐに消化できる、ということでもあり、だとするならそれは離乳食のように「予め噛み砕かれたものを喰わせてもらっている」というか、唯腸論の巨匠たるR大M澤先生風に言うと「口のアウトソーシング」に他なりません。
 問題なのは、文化というのは原則として消化しにくいものを消化していくために努力したことで築き上げられていったシステムである、ということ。大体が大人の味ってのは「そのままではまずくて食えないものを一生懸命食えるように加工したけどでも、それほど旨いってわけでもないもの」ではないでしょうか。アメリカさんみたいに旨いものの旨いとこだけぐちゃっと混ぜても旨い食い物は出来ないのです。まあ一時的に旨くても三日続けて食っていられない。木の根っことか寝言いわずにゴボウ食え、と、お説教の一つもがましてみたいところですが、金欠の折りには58円バーガーにお世話になったことも多々ある身、一宿一飯の恩(?)もあるのでこの辺にして。

 逆に言えば、ゴミがそっくりそのまま人間存在の真理となってしまうのは、同時にわれわれの消化吸収能力、咀嚼能力が落ちている、ということでもあります。食ったものがまんま出てくるから、何を食ったか一目瞭然、ということですね。ですが、だとするとわれわれは、予め噛み砕かれたものを食べ、食べたものをまんま出している、という存在であるということになるわけですから、あら大変、これはもう消化管ではなく、ただの管ではありませんか。まあ、離乳食ってのはもともと便、とは言わずとも吐瀉物に似てますけどね、っていうかだいたい同じものですけどね。そして、そのようになれない立派な人たちは、可哀想にただの管であることを真似しようと、一生懸命過食して嘔吐して、を繰り返すのです。

 こうしてみると、消費社会というのは、消費しているはずの人間(というかユーザー)は何も消費していない、という意外な事実に愕然とすることになります。ゴミは右から左、月は東へ尾は西へ。じゃあわれわれの存在は?というと、そりゃまあゴミのベクター(というと聞こえは良いですが収集車の一翼ですな)じゃないかなあ、ということで、利己的なゴミ、とでも言ってみたくなるところです。たぶんラカンせんせいも賛成してくれるんではなかろうかなあ、と思われるのは、ゴミとはシニフィアンのことでもあるからです。どちらも、われわれを乗り物にして循環していき、そして循環していくこと以外に目的はなく、かつわれわれはその循環の中に自らを表す(と同時に消滅させる)しかないものである、と。ということは、消費社会においての商品とはシニフィアンでしかなく、そして消費活動とは「シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象代理する」という定義に従えば、商品を買って商品を捨てることで束の間の主体性を出現させる活動に他なりません。だからまあ、あなたの買ったものがあなた自身である、とさえ言っていいのかもしれません。いや、より正確にはあなたが何かを買ったので古い何かを捨てたもの、それがあなた、というべきでしょうか。


いつか、人間がシニフィアンの領域に入り込むそのモードを強引にでも示さないといけないとすると、このゴミの堆積物の山、これはそれを示すのに適当なものかも知れません。(seminaire 8, p.257)

 もちろん、それだけではなく、そこには消費のスタイルの違いが反映していることも言うまでもありません。どかんと高いものを使って長く使う、という消費モデルは今では時代遅れ。と指摘するのも時代遅れになったくらい時代遅れ。必要なときに必要なものをちょこちょこ買えばいいのです、というと聞こえは良いですが、要は栄養価の低いジャンクフードを四六時中つまんでいろ、ということです。中毒モードですね。依存症にさえさせてしまえば、単価は低くても安定した収入が見込まれるのですから。それはシニフィアンに代表される会話も一緒。ハイデッガー風にRedeと格好いい言葉を使うこともないでしょうが、コミュニケーションされる内容のない、栄養価の低い言葉を四六時中つまむために携帯電話はあるのです。コンビニと一緒ですね。

 逆に、昨今やたらに「ゴミ女」などなど、ゴミを山のようにため込んで片づけないひとびとをネタにして番組が出来ている、というのも、この辺の事情が背景にあるのかもなあ、と思っている次第。消費社会の人間に生きた証なんてゴミしかないもの、自分の生きた証、自分の生産物を身近に貯め込んでおきたいというのは、それはそれで自然な感情かもね、と。というより、それは端的に症状の純粋型なのかもしれません。「不完全に抑圧されたゴミが、ごみ箱のレベルで、神経症的症状として顕れる」(1959.4.29)というのが、抑圧されたものの回帰のパターンですから。違いがあるとすれば、他者はもうゴミを収集していってくれないので、自分で貯め込んでおくしかない、という事実です。そういえば最近どこの他者もゴミ出し規則にうるさいですからね。

 まあ、そんな話をしながら、ふと思い立って聞きました。最近女性のファッションの露出度が高いの、あれ、女性を脱がせるという機能がアウトソーシングされていて、社会が予め脱がせておいてくれているんですかね?

 ひんしゅくを買ったことは言うまでもありません。