よ〜くかんがえよ〜

おかねはだいじだよ〜

というあのCM(そういえばずいぶん長いシリーズになりましたね)を見るたびに、筋金入りのうえに斜交いと補強材入り(リフォームの匠の技でやってた)の貧乏人のわたくしといたしましては

"Don't think, feel..."

と思ってしまいます。考えないでも肌にひりひりと伝わってくるこの感覚こそが貧乏というもので、考えている時点であなた、貧乏人失格です。アヒルごときに説教されるまでもありません。
 とはいえ、このCMじたいは別段、貧乏人よお金を大事にしろと訴えているわけではありません。というか、貧乏人の味方ではありません。むしろ、お金を大事にする=よく考えるspeculation=賢く投資をするspeculation、という等式が見え隠れします。
 さて、OEDによると、もともと語源学的には見ること、に近いところから考えることとして用いられてきたこの語に、投資という意味合いが付け加わってきたのは、どうも1700年代くらいらしいのです。細かい理由は良くわかりませんが、まあよく考えよう、お金は大事だよ〜(だから賢く投資しよ〜)という思想の淵源はこのへん。

 さて、ここ数年、やたらあちこちで「知財」という言葉を目にします。知的財産、うん、知は財産。あれ?
 個人的には、この考えはどうしてもなじめないものです。そりゃあ、知識を持っていることは幸せに生きていく上で有用なことで、というくらいの意味での、「知識は財産」なら、実に納得がいく話ですが、当然のことながらこの話には知的所有権というのもセットで付いてきます。知が真理であるのなら、真理とは当然普遍であるからして、誰かが所有している、ないし所有することができるとされているような真理とはなんと矛盾した話であろう、と思うのですが、まあそんなこと言ってると、独立行政法人化のあおりで大わらわなきょうびの大学では一瞬でどつき廻されてしまうこと請け合いなので内証。
 とはいえ、いま大学で起きていることはそういうことです。これまでの大学は、マルクス風に言うと資本の蓄積段階にありました。要するに知が純粋な知として、社会的実践から遊離して、蓄積伝承されていく過程です。こうしてせっせと蓄積されていった知は、いまや直接的な意味で財産であることが判明したので、そろそろ自主運用してくれないか、と頼まれることになったわけですね。そんなわけで、大学人もいまやspeculationするだけでなくspeculationまでする時代になったわけです。色んな意味で。ま、情報化社会というのは、知は財である、という意味を押しつけるものだ、と個人的には思うのですが、これはちょっと極論。

 さて、投資と言うからには、当然利潤が上がるのでなくてはなりません。利潤という考え、とりわけ利子という考えが、どれだけ古代から中世に掛けて忌み嫌われるものであったかは、みなさまご存じの通り。だいたい、利の子供ですぜ旦那、金っていったってとどのつまりはモノ、モノの分際で嫁さんもらって(?)子供を産もうなど言語道断ですぜ(当方独身子無し)、と、愚痴の一つもこぼしたくなろうというものです。

 もちろん、近代科学における知とは、知が知を生む(人間は、まあ、うーん、知の産婆さんというとソクラテスちっくで聞こえが良いけれど、実際は知のネットワークの媒体、あるいはその労働者、プロレタリアートですよね)ところにあるわけでございます、と言ってもいい。カッシーラー風に言うと、知のネットワークの形成そのものが真理を決定することになった、というところでしょうか。でも、いやいや実際には知的財産を投資して実際のお金を回収するのが目的でしょ、という現実論を前にしては、若干思弁の遊びであると言われても仕方がないので、これはおいておきましょう。
 どちらかというと、この話から連想したことで、わたくし自身が興味深く思ったのは、これ、デカルト的主体という(まあベタな)問題と相同なのだなあ、ということです。いや、なんでもかんでもデカルトに押しつけるな、というお叱りはごもっともですが、今回は理由は二つ、だって1700年代初頭から、なんていかにも同時代的だし、ほんでもってもう一つにはラカンのとある言及もあったりします。以上薄弱な根拠二つから、ちょっと話を進めてみましょう。