ゴミを宝に

 サントームの話が昔からちょっと好きでなかったのは、ラカンがちょいとばかりジョイスによっかかりすぎる、というところがあるからでしょう。そりゃ、ジョイスは天才だったさ。彼の作品が、想像的なものの脱落を補って象徴的なものと現実的なものを結んでいた、といわれると、まあ意味は良くわからないけど確かになんかジョイスの作品ってそれっぽい、とも思えてきますしね。でも、そんな天才の創作活動に依拠しているだけでは、我ら凡夫の症状はどうしたらいいのさ、というところ。別にフロイトは昇華だけを症状の解消のモデルにした訳じゃなかったさ、というか、ジョイスの例だけ出されたらなんとなく昇華による症状の解消みたいな雰囲気さえしてくるではないさ、という、微妙な思いこみがあったせいでもあるのでしょう。問題は、そもそも昇華と比べて良いのか、ということだと今では思うのですが。

 まあそんなわけで、ミレールの論文から、ラカンのそのアイデアの源流はジッドの奥さんの行為、という風にヒントをもらったので(ん?そう言いきっていいのかしら)話はだいぶクリアになってきました、というかそんな気がする今日この頃です。《他者》の中に空虚をうがつために、手紙を焼くこと。おそらくその空虚はジッドの言を、おそらくは嘆きの言を、引き出すことになったでしょう。そして、その空虚を空虚として表象する、つまりは昇華することで、ジッドは創作を続けることも出来たでしょう。だとするなら、この奥さんの行為はやはり昇華とは違うものです。しかし、奥さんご本人はこの「言」によって語られる空虚となることで、ディスクールのなかに場を占め、つまりは社会的な存在となることが出来ます。

 昇華と、サントーム的な行為の対比、それは、どこかフォンタナの作品を思い出させます。セミネール第7巻でラカンメラニー・クラインの患者の逸話を持ち出しながら昇華について語ったときのことを思い出すと、それはこの「不在」あるいは「《他者》の空虚」を埋めるために描かれたもの、とされていました。そして昇華の典型的な構造はハイデッガーの壺作り同様、無あるいは不在の空間を取り巻く何かを作ることで、無を無それ自体として存在せしめること、でした。しかし、1972.6.21の講義でラカンはフォンタナの作品をこう論じることになります。


「言direだけが別の次元をもっています。それがディスクールです。それは、関係から生じたものであり、皆さんをすべて、それぞれの集合ごとに、必ずしもそこにいない人々と結びつけるものです。これは関係、あるいは宗教、社会的紐帯などといわれています。・・・言direは幻想といわれるものを構築するものの中で効果を持っています。つまり、欲望を引き起こすためにディスクールの効果の中心にある対象aとの関係ということです。そしてこれは、一つの裂け目のようであり、それを中心として、主体と呼ばれるものが集約されるのです。それが裂け目であるというのは、対象aは常にそれぞれのシニフィアンの間にあり、それに引き続くものでもあるからです。そしてこのために、主体は常にその間にあるのではなく、むしろ反対に裂け目としてそこにあるのです。ローマの話に戻れば、とてもわかりやすいこの効果に私は触れることができました。これはフォンタナという人物の銅版でよく理解できたのです。もう亡くなったようですが、彼は建築家、彫刻家としていくつかの才能を見せた後晩年はイタリア語でいえばsquaricoというものに専心していました。そう思えたというだけですよ、私はイタリア語を知りませんからね。そう説明してもらったのです。これは一つの裂け目です。彼は銅版の中に裂け目を入れたのです。これはある効果をもたらします。感受性のあるものには。感受性を持つためには私のspaltungについての話を知っている必要などありませんね。やってきた最初の方は、女性であったぶんなおさらちょっとしためまいを覚えたようでした。フォンタナは構造を無視したものなどでは全くない、これは余りに存在論的であると信じていたのだ、という風に信じてみた方がいいでしょう。」

 もちろん、これは昇華とは別の文脈で導入された話だ、ということは言っておかねばなりません。昇華が、象徴的なものの力によって無という現実的なものの中から無そのものを象徴的に作り出すという手順であるのに対し、このフォンタナのプロセスはそれと同一のものと見なすことが出来るのでしょうか。それがむしろ言の生まれる場所を作り出すために、虚無の空間そのものを生み出す行為なのだとしたら。そしてそれが主体の場そのものであり、その中で主体は「語られるもの」として存在することで、社会的紐帯を築くのだとしたら。それはたとえば、ジョイスが「大学人は今後400年はネタに事欠かないだろう」といったという、その意味においてです。あるいは、手紙を焼かれたあとのジッドの嘆きのように。

 前々回お話ししたコロックのあと、個人的に質問として、サントームと昇華とはどういう位置づけになるのか、同じものなのか、という質問をしたのですが、グリッグさんの答えは否定的であったと記憶しています。時間のないあわただしい質疑応答では意図を図りかねるところが多かったのですが、こういうかたちで論じていくと、まあ否定的な理由もわからないでもないなあというところ。でもまあ、まだわかりやすく構造化できた、というほどには整理されていないのですが。

 この差異、あるいは変動はどこから生じたのだろうか、と、ぼんやり考えます。あるいは、われわれの社会はもうなにがしか充満しきって息詰まるような世界であるのかもしれない、とも。かつでは無という現実に囲まれ、そのなかからわれわれは新たな象徴的なものを生み出すことになっていました。フロイトが常々いっていたように、売れなければ昇華ではない。それはきわめて抑圧的な環境です。逆に言えば、そのリジッドな象徴界が現実的なものとしての無を、その貫入をはねのけるというかたちで、生み出していたのかもしれません。
 しかし、いま、ゴミを宝に、ではありませんが、われわれの社会はある意味ではひどく抑圧の敷居が低く、あらゆるものを無限に象徴化しついでに商品化する術に長けています。そのなかでは、われわれはまずもって、新たなディスクールが生まれるための無を、我と我が身を切り落とすように、生み出さねばならないのかもしれません。

 ま、昇華論としてみるにしても抽象的に過ぎ且つ平凡に過ぎ、おまけになんら発展性のある理論的方向も示せていないのですが。。。とりあえず、このあたりをたたき台にゆっくり考えていきたいと思っています。