犯人はお前だ

 コナン君でも金田一少年(古いか、と思っていたのですがまたドラマシリーズが始まるらしいのでむしろ新しいのかもしれない)でもいいのですが、探偵ものを見ているといつも思うのは「犯人はこの中にいる!」というアレ、いいのかな、ということです。
 そりゃ推理小説なんですから、そのなかに犯人が居ないことには読者に謎解きの楽しみがありません。通りすがりの通り魔の犯行でした、なんてしゃれにもならない。でも、まあ最初っからこれだけ対象枠が絞れているのなら、そりゃいいなあ、と思ってしまいます。まあしかし、それがゲームのゲームたるゆえん。ゲームの外には何もなく、すべてはゲームの中で完結していなくてはなりません。
 精神分析で言うファルスの論理というのも、それに似ています。というか、この種のゲームの受け入れ、あるいは「虚構の構造を持つ」真理の場としての象徴的なものの受け入れは、たとえばサールの言語行為論における「制度的現実」等々といった言葉を通じて、ある意味ではもう十分によく知られるところになったのではないかと思います。
 もちろん、ここでいくつかの誤解は避けておかねばなりません。まず第一に、この種の「ごっこ遊び」の受け入れそれ自体で象徴的なものへの参与が完成するというわけではないと言うことです。ジジェクの好みの例で言えばサンタクロースとかその類を真剣に信じている子供達を横目に微笑ましく眺めながら、サンタの格好をしているお父さん達こそがこのごっこ遊びに本当の意味で捕まった人たちなのです。もうちょっと社会学的な言葉でいうなら、ゴッフマンの「役割距離」がそれにあたるでしょう。ゴッフマン自身がどう考えていたのかは、わたくし特に専門というわけでもないので今ひとつわかっていないのですが、むしろこの「役割距離」こそが真の意味での役割の引き受けの印、と、ラカン風には言ってもいいかもしれません。
 ときどき、フロイトの論文「ユーモア」のなかで、フロイトのいう超自我の逆説はあんがいこんなところに源があるのかもしれない、という風に思うときもあります。まあ、それはまた別の話ですが。

 それはともかく、避けておくべきもう一つの誤解、それは、ある種の過度に単純化された社会構築主義のように、この制度的現実にたいする人間の操作に妙な万能感を抱くことです。たとえば諸々の繊細微妙な権力論も、とどのつまり背後に暴力という現実的なものを残してしまうように、この「ファルス・ゲーム」にも根本的に排除された外部があります。それが異性といわれるもの。そんなわけで、ラカンせんせいは「性関係は存在しない」というふうにいう羽目になったのでした。なにせ、ラカンせんせいにとって、ファルス的享楽とは基本的に自慰的な享楽、つまりは「愚か者の享楽」だったからです。
 ですが、ここでもやっぱり言っておかねばならないのは、「性関係は存在しないけど性行為はごろごろ存在している」という事実です。逆に言えば、すべからくラカン的な意味での「行為」とは、この根本的に排除されたが故に関係性を持たない何かを一気に束の間結び合わせるものでなくてはならない、ということになります。
 
 ここで興味深いのは、ラカンがvraiという形容詞をある二つの言葉に掛けて使っていた、ということでしょう。一方では前回もお話ししたような真の女une vraie femme、もう一つは真の言vrai direです。いや別にこの二つってだけではないのでしょうけれど(まさにc'est vrai?って聞かれそうだ。。。)vraiという言葉に非常に意味をおいてしゃべっているように思われるのが印象的な二カ所。そして、これまでこのブログで引用したことのある(これが本音?)二カ所、ということです。

 真の言、に関しては、われわれは《他者》の中の空虚、というふうにそれを考えてきました。ファルスゲームの世界のなかでは、《他者》の中に空虚はありません。だってゲームはゲームの中では完璧なのですから。犯人だってこの中に必ずいるし、と思いながら愚か者たる男性諸氏は自慰にふけることもできる、そんな場所です。しかし、男性のなんらかの発言は、女性の中にこのゲームの亀裂、《他者》の不在あるいはS(A/)を生み出すことになります。その意味で、女性は男性の症状である訳なのですが。こちらは、発話行為によって不可能を偶然に変えてしまう、ということと考えてもいいかもしれません。このとき、女性は、もしご機嫌がよろしく、そしてこの男性の発話が真の意味での言であるということ、つまり《他者》の不在を作り出すようなものであると、自慰的なゲームの終わりをもたらすものであると受け入れる気になって頂いたとき、自らをファルスに化身することが出来ます。

 他方で、真の女、に関してはこれはつい先週書いたことですが、いちばん良い例は王女メディアであったり、あるいはジッド夫人ということになります。我と我が身を切り落とすように、自らにとってもまた《他者》にとっても代え難いほどに貴重ななにかを壊してしまうことで、強引にこの《他者》の空虚を、引き破るように作り出してしまうこと、あるいは自らがその裂け目そのものを象徴するものになってしまうこと。

 そういう風に考えてみると、先週われわれはミレールの論文を検討しながら、よくわからないなあ、と愚痴っていた箇所、つまり「一つは症状への同一化。つまり、症状を何とか取り除くのではなく、症状そのものになってしまうこと、そして症状の享楽の開示こそが存在の欠如を取り除くのである、と。この場合、不可能なものへと接近する必要性を感じることになる。対象的に、幻想を通過すること、を選んだ場合、人は自由と、そして偶然性への接近を感じることになる、とミレールは言う」という点についてある程度の方向性を見つけ出したようにも思われます。「症状への同一化」としての「真の女」と、「幻想を通過すること」としての「真の言」と。ま、まだ仮説でしかありませんが。

 とはいえ、いずれにせよ大事なのは、この「ファルス・ゲーム」の終わり、ということです。またしても誤解のないように言っておけば、精神分析におけるファルスの意義とはこの種のゲームの空間の成立、つまり、「すべての人間はファルスを持つか持たないかである」というゲームの成立をもたらすことができる、という点におかれています。だからこそ、女の人がそこに入ってきてくれるかどうかは偶然でしかない。しかし、ある意味ではこれは《他者》の不在をファルスといういわばレディメイドの「見せかけ」によって、男女双方の共同作業によって、補っていく、あるいは補填していく、見事な理想型であると考えることも出来ます。まるでダンスのような優雅さがそこには必要です。ここまで含めた上で、これを症状の男性形、あるいはレディメイド、というべきなのかもしれません。当初の予想では、もっと単純に、「ファルス享楽」の自慰的な幻想こそが、レディメイドの典型例であるように思っていたのですが、そこまで単純ではないのかも。むしろ、性関係の不在という不可能さの中に、偶然芽生えた「行為」によって生まれた共通の《他者》の空虚を、ファルスという必然へ変換していく作業、という風に言った方が良いのかもしれません。
 他方で、こちらは完全に「女性形」の症状として、症状への同一化、あるいはみずからが《他者》の中の空虚となることで、逆説的に《他者》の中に、《他者》の症状として、身を置くことが可能になる、のかもしれません。セミネール20巻風の図式で言えば、ファルスではなくS(A/)へ向かう矢印に。つまるところ、いずれにしても女性の性別化であり、そして女性がそのどちらのタイプを選ぶのか、という差でしかないような気もしないでもないのですが、そうすると、女性がこのファルスゲームに協力してくれることを「症状の男性化」あるいは理想型として、むしろ《他者》の空虚をうがつ方に向かうときは、これをさしあたり「症状の女性化」という風にいうことができるでしょう。

 そうすると問題は、この「女性化」において、あるいは「真の女」としての行為と、それがどのように「社会的紐帯」として、あるいはRSIの結び目として、機能するのか、ということになります。それはまた次回。