Lady-made?

 さて、割と昔から(裏付け無しに)提唱していた、というかしようとしていた小ネタの一つに、既製品の男性性、オーダーメイドの女性性、というネタがあります。
 そのインスピレーションの源になったのは、噂に聞く抜きキャバほかの男性向け性風俗のあまりの流れ作業というか大量生産というか、そんな光景でした(体験談ではなく伝聞でお伝えしております、念のため。)もうね、あれ、工場でしょ。男性という原材料から精子を排出させるための工場。もちろん、そこで働く女性たちは機械ではなく、豊かな職人芸の伝統を受け継いでいるじゃないか!という主張もありましょうが、基本的には非熟練労働者もいっぱい混じっていそうな気もします。その昔、今はなき菜摘ひかるさんだったか、難しいのはキャバクラとソープで、その中間くらいの性産業は楽なものだ、と言っていたような気がしますが、それはこの「精子工場」を離れた「感情労働」の比重が増してくるのがその両端だからなのではないかなあ、と思ったりしたものです。労働者から職人あるいはアーティストへ。大変です。
 他方で、この「工場制」に相当するような女性向け風俗産業って、ないよなあ、というのが、「オーダーメイド」説の拠って立つところでございます。ホストはもちろんキャバクラの方に近いですし、出張ホストといっても、男性向けのデリヘルホテトルほかに見られるようないわゆる「コース設定」という、どっちかと言えば作業工程見積みたいなヤツはあまり見かけない気がします。とりわけ、男性向けのそれは「精子生産」(排出かも)に向けてのコース設定なわけで、女性向けのホストで、たとえば性行為に関するその手の細々した工程が記述されているケースは無いように思われます。ハンサムな男の人にバイアグラのませて勃起させておきますので、みたいな、言ってみればバイブ的な扱いってないですよね。やはり、単純労働と言うより感情労働の比重が高いように思われます。

 その辺が、AVの需要と受容にも関係しているのかもしれません、基本的にAVというのはマスイメージというか記号の消費なわけですから、これは既製品の持ち分です。もちろん、女性も男性同様AVを見て楽しんでいらっしゃる方もいるわけですから、この議論、一概には二分できないでしょう。さらにいえば、レディコミに始まって今では少女漫画に至るまで(駅弁ファック状態で街中歩くヒロインと恋人、って漫画が普通の少女漫画雑誌に載っているってのはどうだろう、と思っていたら、東京都では改善要求が出たらしいですね)女性向けの過激な性描写を含む作品はかなり増えています。逆に、男性向けAVのジャンルの限りない細分化やイメクラほか諸々のサービスの登場で、男性向け性風俗も、オーダーメイドとは言わないまでもかなりのところそれに近しいほど細やかなレディメイド、と言っていい状況になりつつある、というわけで、この二分法、どうも境界線はあいまいになりつつあるような気もします。感情労働とデータベース、あるいは感情労働の産業化としてのデータベース、でしょうか。もちろん、最近大沢真幸さんが言っていたように、これは「メニューのファミレス化」で、もの凄い膨大なメニューがあってもどうしても欲しいものが一つもない、という状況を作り出すこともあり得ます。ドゥルーズ=ガタリ的なリゾームは、コッドのリレーショナルなデータベースのなかで「すべての有限個の要素の有限個の組み合わせ」というかたちで一瞬で電子的にパロディ化されて、「潜勢態」のかけらもない状況に放り込まれる、というところでしょうか。そのなかで、人はますます微細な差異を見つけてそれを性感化し、みたいな。
 まあそれはともかく、この「既製品」と「オーダーメイド」という考え方、実は最近(ってほどでもないけど)のラカン派の精神病治療構造論で、結構な意味を持っているのです。これまでも、このブログではここのところ、性別化のマテームの分析に始まって先日のミレールの議論の紹介に至るまで、この流れをむしろよりラカンに内在的に追ってきている、といってもいい、と自分では思っていますが、どうでしょう。。。まあそれはともかく、今回はとりあえず手短に、ラッセル・グリッグさんの2004年11月28日の京都での精神病理コロックでの講演"Why psychoanalysis must not back away from psychosis"を紹介して、導入にしてみましょう。というか、元が1時間半ほどの、それもこの傾向の紹介を趣旨とした講演ですので、はなからまとめみたいなものなのですが。
 もちろん、こういう「最近の動向」みたいな話は現在パリにいるきちんとした方(O大のN先生とか)からダイジェストしてもらった方がよっぽど確かで、我ながら「葦の髄から天井をのぞく」とはこのことだ、という気もしないでもありませんが、折角最近"Sinthome"も発刊されたことですから、細かいところからこうした発想になれていく練習をしておくことは大事だろう、ということで、ちょっとまとめてみました。

 講演の趣旨全体は、ご存じの通りフロイトは精神病治療に関しては精神分析は無効だと語ったが、ラカンはより踏み込んだかたちで治療について語っていた、そして晩年のラカンの症状論を手がかりにすることで、われわれはさらに積極的に治療に乗り出すことが出来よう、というもの。とはいえ、わたくしとしましては、その目的全体の是非にはとりあえずノータッチ、話はラカンの症状論の変遷に絞ってお伝えすることにしましょう。


 で、ラカン派の精神病論と来ると必ずこの話からになるのが少々心苦しいのですが、グリッグさんもまず背景知識として「排除」という言葉を紹介します。精神病においては父の名の排除が問題になると。
 排除は神経症における抑圧とは好対照をなします。抑圧の論理は基本的に「あるのは知ってるけどないことにしたい」というわけで、何か別のものに置き換えてしまうこと。「あっしが吠えているのはあそこの電柱ですぜ」(『動物のお医者さん第三巻』(佐々木倫子著、白水社文庫)p.199)ということですね。排除の方は逆に「単になかったこと」になります。
 じゃ、父の名ってのはなんなのよ、ということになりますが、ここは手短に「それ自体は意味がないけれどそれを記号化しておくと他のことが万事諸々上手く行く」記号のことです。ラカン虚数のiやら無理数の√やらの話をしていたときに念頭にあったのはこのこと。別に無理数虚数を混同していたとか、そういうことではありません。どっちでもよかったのですが、まあ虚数の方がより良い例でしょう。「どこにあるんだそんなもの見せてみろ」と言われて困るけれど、とりあえずその記号を作って演算規則を決めておくと、とりあえず諸々見事に調整されて機能し始めるということです。これがファルスの意味と呼ばれていることに何の不思議もありません。アリストテレスの昔は子宮の意味だったような気もするけど。

 とはいえ、この種の排除によって排除されたものは、かならず現実的に帰還してきます。思考反響とか、言語幻覚とか。ですから、この状況に陥ったとき、人は言語との関わり方を変えることになります。一方では、言語新作から果ては新たな言語の創設に至るまでの努力。グレッグさんはこれをコード現象といいます。ですが、この言語、よく知られているように意味を持ちません。意味が空虚なのではなく、意味が充溢しきっていて他の何の言葉にも置き換えられないのです。意味はないけど機能する、の真逆ですね。意味がありすぎて置き換え不可能なので、もう言語としては機能しない。しかし、逆にメッセージのレベルでは、ある謎が確信に変わる、ということでもあります。グレッグさんに拠ればメッセージ現象。

 でもさ、この父の名の不在をなんらかのかたちで補えれば、それはそれでいいじゃん、というのが、1970年代以降のラカンの議論。この補うもののことを、補填といいましょう。
 最初にラカンが取り上げたのはジョイスでした。ジョイスが精神病圏のかたであることはよく知られていますが、でも彼は精神病者ではなかった。それは彼の著作活動が補填となっていたからではなかろうかしら、と。
 そうすると、理論全体の重心が移動することになります。これまで見てきたような『父の名』というのは、もしかしたら補填物の中のプレタポルテで、それがなかったとしてももしかしたら個々人は個々人なりにオーダーメイドの補填物を見つけているかもしれない、と。グレッグさんにいわせると「排除の理論の一般化」ということになります。
 まあそんなわけで、ラカン派の診断カテゴリーには一般に含まれていない「境界例」も、この枠で処理しよう、というのがグレッグさんのお話。そういえば以前南先生がパリのラカン派の診断につきあったとき、日本なら境界例というであろう患者さんのちょっとの言語新作(ともいえないかもしれないような軽いヤツ)を取り上げて精神病と診断した、という話がどこだかに掲載されていました。その当たりから比べると、もうちょっと理論的に洗練化された感じでしょうか。ちなみに、境界例が浮上してきた理由として三つ、精神薬理学の進展、ヒステリーの領域が狭小化したこと、発病していない精神病を評価し損なったこと、が挙げられています。

 そこで、精神病治療の新たな力点として、シニフィアンの連鎖から現実的なものの中のシニフィアンヘ、象徴的なものの優位から現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものの三つの結びあわせ、欠陥と言うよりクリエイティブなものとして精神病を見ること、の三点が指摘されています。とりわけ三番目、主体が言語と、ひいては社会的紐帯と取り結ぶことになる、より創造的な次元に焦点を置くこと、に。

 さて、とりあえず、こんな感じで「レディメイド」と「オーダーメイド」の話は、最初は性別化の話から導入されて、さらに症状論にまで発展した、という風に捉えておくと、セミネール第18,19,20巻あたりからの流れを第22,23巻あたりの流れと一貫して理解することが可能になります。なんとなく思想史っぽいまとめでしょ?
 ということは、出たばかりの第23巻、サントームを理解する前に、やっぱりもう一度「症状の女性化」という問題を、性別化のマテームの話に戻って再構成しておいた方が良いのだろうなあ、という気もしてきます。これはまた先の宿題にしましょう。