虚無との調和?

 さて、前回から引き続き、焼かれた手紙のお話。ラカンの『エクリ』所収の論文、「ジッドの青春、あるいは文字と欲望」と、それに関するミレールの分析を引き続きまとめてみましょう。

 王女メディアをラカンが援用したのは私の知る限りでは一カ所、ジッドの青春の冒頭のエピグラフと、そしてあの焼かれた手紙の箇所だけ。ということは、メディアの何が問題なのか、ということは明らかです。
 エウリピデスの「メディア」のあらすじは周知の通り。金の羊の皮を探しにアルゴー号に乗って冒険に出たイアソンは、王女メディアの助けを得て見事使命に成功します。ところが移住先でイアソンはその国の王女と結婚してメディアを捨ててしまう。復讐のメディア。再婚相手(?)の女とその父、そして自分とイアソンとの間の二人の息子を殺してしまうのです。まあ、母からの距離といえばそりゃこれほど明らかなケースはないかもしれません。

 念のために言っておけばこれは幼児虐待の話ではありません。メディアは良き母、愛情深い母でした。子供を殺す理由があったとすればそれはイアソンへの愛故にとしか言いようがありません。そして、ラカンはこのメディアの行為と、そして手紙を焼いてしまったマドレーヌ、ジッド夫人の行為とを並べて、真の女性の行為と見なしたのです。その意味では、真の女性とはつねに真の女性の行為のたびにその主体として出現するもの、と言うべきなのかもしれません。存在者でも所有者でもなく、行為として。ついでながら言えば、「欲望に妥協しない(譲らない)」というラカン精神分析の倫理での定義も、この位置に置かれるべきものであるように思われます。対照的に男は所有者であるが故に失うものが多すぎ、そしてそれを避けるために次から次へと譲歩します。「男の臆病さは女性の無制約さと強烈な対比を為す」とはミレール先生の弁。逆に女性にとっては、所有という解決策は結局偽りと非正当性を生むだけで余りよいものではないかも、とラカンは考えていたのかもしれない、ともミレールは言います。
もっとも、このあまりに殺風景な対処の他に、女性にはたとえば「秘密、嘘、無知」という三題噺もあるとミレールは書いています。秘密は女性にとって享楽の条件であり、嘘は彼女にとって対象aとなると。そして、この秘密を守るために、女性は無知を装うのです。秘密とはまた、隠された知でもあるわけですから、そこに知るべき何かがあるもの、として女性は浮上してくることになります。

 さて、それでは当初に戻って、こうした在り方は性差の何に反映してくるのでしょう。まず持ってそれは女性と男性における幻想の機能の違いである、とミレールは言います。
 男の側の幻想はかんたんに、そもそもΦ(a)というかたちで始まった、とミレールは指摘します。この書き方は確かにエクリの「ダニエル・ラガーシュ」の中に見つけることが出来ます(e, 683)。これはもともとは部分対象として、欲動の対象として対象aは出現した、という事態を指しますが、欲望はファルスの見せかけをもったものによって維持される、ということを指すよう変形させることも出来る、というのがミレールの論。女性の側はA/(φ)とラカンは同じ箇所で書いています。ミレールはこれを、A/かファルスかの二択と捉えています。逆に男性から言えば、女性を欲望するときにはこのΦの機能がより強力になってくるわけですが、同時に女性への欲望が動き出す過程でなにかの「幸運」で男性がこのA/にたどりつく、つまり《他者》は存在しないということにたどりつけば、一応問題は収束することになるわけですね。もっとも、男性の側はファルスの機能がより強力になるにつれ、ファルスをただの見せかけに還元してしまう動きにたいする抵抗もそれだけ強力になるわけですが。

 さて、最後にミレールは、分析の終わりの二つのモデルを提示しています。一つは症状への同一化。つまり、症状を何とか取り除くのではなく、症状そのものになってしまうこと、そして症状の享楽の開示こそが存在の欠如を取り除くのである、と。この場合、不可能なものへと接近する必要性を感じることになる。対象的に、幻想を通過すること、を選んだ場合、人は自由と、そして偶然性への接近を感じることになる、とミレールは言うのですが、このあたりは最後に駆け足で述べられるので今ひとつしっくりわかっていません。あるいは、前者が女性モデルであり後者が女性モデルであり、その幻想の在り方に応じて分析の終わり方にも二種類ある、ということなのであろう、とは思うのですが。そして通過モデル(男性)の場合は、そこにはヴェールを掛けられていない享楽が剥き出しのかたちで残り、そこにいわば「圧縮された幻想」のようにファルスの機能が、今度は享楽の圧縮物として、残ってしまう。そして症状の中に享楽を探す女性モデルへとラカンは傾いていったのではないか、というのがミレールの説です。とはいえ、この辺まだ説明不足に思われます、というか、まだ良くわかっていません、わたくしは。。。

 とはいえ述べておかねばならないことは、じゃあ手紙を焼いたという話と症状への同一化と、なんか関係があるのか、ということ。それはこの享楽という問題が、《他者》の中にうがたれた空虚と等置であることに由来します。あなたの手紙を焼くことで、「いやむしろ《他者》のただなかに新たにこの空虚をうがつために」(ecrits, 679)。
 さて、ラカンせんせいの書くところでは、手紙を焼いたジッド夫人は、その咎を優雅に笑って受け入れたのだそうです。ジッドの中に永遠にうがたれた空虚そのものに、彼女自身がなってしまうこと。それは、彼女にとって症状の享楽の開示であったのかもしれません。無であることから、無になることを通じて、享楽へと同一化する、そんなプロセスでしょうか。

 しかし、この話を聞いていつも疑問に思うのは、このお手紙の片割れ。お手紙と言うからには、ジッドが一方的に書いたのではなく、奥様からのお返事もあったのではないでしょうか。そして、そのお返事、ジッドはどうしたのか、あるいは奥様はそれをどうにかするように要求しなかったのか、ということです。ご存じの方教えてください。。。
 お手紙、この場合、lettreではなくcorrespondanceなわけですが、そうするとcorrespondするものがないといけません。でも、燃やされてしまった手紙の対応物は?それはやっぱり燃やされなくてはいけなかったのか、あるいはそのままだったのか。だとしたら、それぞれの場合、それぞれの意味はどういうものなのか、これはこれでまた、ちょっと別に考えてみたい問題です。