無意識における燃やされた手紙の審級

 ラカンがジッドについていくつか述べていた(エクリやセミネール第五巻などなど)ということはよく知られています。知人がそれで論文を書いていることもあって、個人的にも比較的なじみのテーマではあるのですが、気になる点が一つだけ。
 もちろん、丹念に書かれた知人の論文に文句をつける余地はないのですが、それでもやっぱり「ねえねえ焼かれた手紙の話は?」

 ジッドが同性愛者であり、その奥さんは壁の花、処女のまま亡くなったらしい(フランスでは白い結婚mariage blancと言うらしいですね。夢判断の中に出てくるフロイト強迫神経症の症例を思い出させる逸話です)、ということはご存じの通りですが、その奥さんにはちょっとした逸話があります。ジッドからもらったお手紙、全部燃やしてしまったというのですね。
 そんな扱いをした奥さんに対して、と考えると変な話なのですが、ジッド先生、それはそれは美しい愛の手紙を奥さんに送っていたのだそうです。ご本人も納得の自信作。「これほど美しい書簡はなかった」とはご本人の談。それを燃やされたと聞いたときジッドは悲痛な叫びをあげたといわれているそうな。このあたりは、ラカンの「ジッドの青春、あるいは文字と欲望」をご参照ください。

 わたしにとっては、この論文のピークはですから、この燃やされた手紙の話であるべきでした(個人的な経験が反映しているという噂もあります。。。)そんなわけで、その論文を書いた知人には「ねえねえそこ扱おうよ」とアピールしていたのです。残念なことに知人を含め、このあたりに詳しい別の先輩ほか周辺からの反応はいまいちで、おかしいなあ、個人的な偏見で目が曇っているだけでそんなにポイントじゃないのかしら、と残念に思い、かといって自分で書くには億劫で(そもそも文学系苦手なのです)そのままほったらかしていたのですが、幸いにもジャック=アラン・ミレールが扱っている論文があったので、今日はその話。"On Semblance in the Relation Between Sexes"をまとめてみましょう。所収はSexuation, ed. Renata Salecl, Duke University Press, 2000.です。
 そりゃまあ、ラカニアンの総帥ですから、ミレールさんもまずは型どおりにこの話から入ります。「女は存在しない。」でも、それは女性という場が存在しないのではなく、その場所が本質的には空位であることを意味し、空位であると言うことはそこに何も見つからないと言うことではなく、マスク、それも虚無のマスクしか見あたらないと言うことなのだ、と注釈をつけます。そんなわけで、女性と見せかけの話、というこの論文のタイトルに、話は入ります。

 じゃあ、見せかけってなによ?ってことになるわけですが、基本的には見せかけとは無にマスクを掛けるものである、とされています。ヴェールとか。そう、女が見つからないからヴェールを掛けるのではない、女を創造するためにヴェールを掛けるのだ、と。そんなわけで話は見せかけ、無、女性の三題噺だということになります。
 でも、無と関係を持つのはすべからく人間の運命ではなかったのかしら、ということが思い起こされます。しかし、その無との関わり方には性差がある、というかその無との関わり方が性差を決定する、と言ってもいいかもしれませんが、それがこの論文の基本方針となります。まずは、女性のほうがその無とより親密であると。
 フロイトの古典的な定義によれば、この無とはファルスの無、ということになります。ですから、女性は羞恥心を持つ。でも、羞恥心は逆に眼差しを誘惑するための創作手法でもあり、そのことで女性はその身体そのものがファルス化されることになります。ファルスを創造するものとしてのヴェール。
 この欠如の定義は解剖学的なものですから、当然女性にとっては去勢とは完璧なものであることになるはずです。でも、それを主体化するという問題はまだ残っている。フロイトによればそれはペニス羨望です。逆に言えばこの欠如の直接的な概念化こそが女性の臨床の鍵であると。ミレールは面白いことに、この点を考えると公正不公正というテーマは女性起源なのではなかろうか、などと言っています。つまり、この欠如を埋めることこそが公正さの起源であると。

 でも、じゃあこの「穴埋め」こそが解決策だ、ということになると、結局残された手は所有ということに関しては「母になること」でしかなくなってしまいます。まあ子供とか出来るし。でもそんなのめんどくさい、という方のために、存在、という解決もあります。それはこの穴を埋める何かを持つことではなく、むしろ穴になってしまうこと。あるいは無を持った存在となってしまうこと。このために、女性のアイデンティティの欠如という問題は臨床上男性のケースではあり得ないほどに強烈なものとなる、とミレールはいいます。無であることの苦痛。それはアイデンティティだけの問題ではなく、身体感覚の一貫性の欠如にさえもつながります。

精神病的な苦痛、とミレールは表現していますが、これは別に(時々この種の誤解が出るようですが)女性と精神病を関連づけようとした意味ではありません。むしろ(最近"Le Sinthome"も発売になりましたが)近年のラカン派の症状にたいする見方の変化がその背景にあります、とだけここでは述べておきましょう。簡単に言えば症状の男性化から女性化モデルへの変更です。

 ですから、ある女性たちには、男性の《他者》に対して攻撃を仕掛けて、オマエにはその欠如があるはずだ、と鵜の目鷹の目になる、という解決策もあります(それであの人達はあんなに人の弱みを探り出すことに熱中するのでしょう。)まあ別にそれだけではなく、《他者》の中にその穴を具現化するヴァリエーションこそが「ファルスであること」の意味だとミレールはいいます。そのことで、男性の《他者》の「所有」を「見せかけ」に還元するのであると。

 ですが、ラカンせんせい曰く、「真の女性」は別な手を使います。困ったことに女は存在しないといいながら真の女はいるとラカンはいってるんですややこしいですね、とはミレール先生談。どういう事でしょう。
 この「真の女」とはケースバイケースでしか出てこないので、コンセプトにするのは難しい、とミレールはいいます。というか、一瞬しかその位置にいないかもしれないし。それはもう、テュケーのようなものなのだ、と。これもまた、症状観の変化と関わり合う指摘といってもいいのですが、それはまた別の機会に話しましょう。

 しかし、それはとりあえず「母親であることからの距離」とは言えるのでしょう。むしろ、そうした所有を犠牲に捧げること。どういうこと?といわれれば、一番良い例は王女メディアだろう、とミレールは例示します。
 次回は、この話から再開しましょう。