ミクロウォーズ?

 前回は、脳と身体と私、みたいな話から、ミクロ権力の話と最近の症状の意味、というところまで与太を吹いていたのでした。いちおう、まとめというかオチを付けておきましょう。

 心理学化する社会、と、最近よく言われます。本来なら社会問題であるべきところを、個人の心理の問題に還元し、矮小化し、責任を押しつける。あるいは逆に個人の思想、倫理観の問題であるところを、心理学化した解釈を持ってくることで責任逃れをする。いろんなかたちで使われているこの言葉、少なからず賛成するところはあるのです。っていうか、抗うつ剤がよく効くようになったと行って浮かれていると、そのうち職場の劣悪な労働環境から精神的におかしくなったケース、というのが全部解消されちゃわないかしら、とか、一昔前なら「反精神医学」的な問題提起として絶対出てきたであろう問い(そして当時はそこまで薬も効かなかったし労組も機能していたし景気も良かったしでそれほどは深刻さもなかったであろう問い)はまったく聞かれなくなりましたしね。我ながら時代遅れなこと書いているのかな、と、部外者でさえ不安になるくらい場違いな問い、という雰囲気さえあります。

 ですが、それに抗して「心理学化する社会」に意味があるとすれば、それは、このようにかつては個人と社会という間に引かれていた戦線が(そして多くの場合フーコーのミクロ権力というのも、基本的にはその延長で理解されるべきものであるように思いますが)いまやたんに個人の、生物学的な身体の内部にまで縮小してしまっており、戦線はそのなかにある、という事実です。脳と意識と身体、あるいは手首と意識と身体。なんでもいいですが他にもヴァリエーションはいろいろでしょう。たくさんの自傷的な行為。それがお医者さんの元に持って行かれることがあったとしても、それはメッセージ、自分が置かれている状況を象徴的に表した、解読するべき意味ではなく、承認が求められているだけなのです。それを心理学化といって非難できるかは、ちょっと微妙な感じ。逆に、それをドゥルーズ=ガタリ的に、多様な流れがファルス=精神医学的権力へ取り込まれ、という風に論じるのもちょっとやな感じ。だって、苦しいもの。自由で多様な流れというなら、ある日目が覚めたら俺の手首が書き置き残して家出していました、くらい自由な生き物になってからにしてくれ、と思ってしまいます。まあこれも、ちょっと矮小化しすぎたドゥルーズ=ガタリという気もしますが。。
 とはいえ、この戦線の縮小化と多様化、あるいはゲリラ化、という問題は、いろんなところで見ることが出来ます。例えばジジェク第三世界の内部化、というかたちで描いているものもそう。某R大のM先生もジジェクとはまったく独立に同様のことを前から言っていましたし、それがリストカット等の症状とパラレル、ということを論じていたような気もします。個人的にはこれ、デリダ風に、電子メールと絡めて論じてみたい気もします。今、われわれがPCに「プレゼンテーション」されるのは、自分の内面の心理や、親密な親書のやりとりであると同時に、ネットで配信される公的な諸々の文書でもあり、あるいは匿名で垂れ流される掲示板の悪罵であったりもする。ここにもまた、戦線のゲリラ化があります。内側なのか外側なのか。

 まあ、よくWinnyのたぐいで、仕事用のパソコンとプライベートのは分けるべき、というお説教が見られますが、あれ、あんがい真理を突いているのかもしれませんね。ついでにいうと、別のPCを用意するのが面倒という場合は、仮想マシンを入れるという手もあります。VirtualPCマイクロソフトに買収されちゃって今後どうなるかわからないけど。PearPCは作者がお亡くなりになってしまったけど。

 そうすると、ふと思うのです。仮想PCって人格?と。われわれが一人の人間でありながら、その象徴的同一性の変化に応じて(父であり会社員であり電車の乗客でありetc.)使い分けつつも、結局は一応一人の人間に統合されているように。
 いま、このメカニズムは携帯電話ではとても普通に行われています。おそらく、こうした戦線のゲリラ化に対抗する有力な手段なのでしょう。PCも、あんがいそうなる日が早いかもしれません。そして、その切り替えを意識的に行っているのが、いわゆる「感情労働」かそれに近しい性格を持った職場の人間であるというのも、なにか示唆的に思われます。

 ま、わたくしは携帯電話持っていないから関係ないんですけど。。。