あなたと脳と身体と

 ある日の研究会でのこと。
 性同一性障害の患者さんをたくさん抱えていらっしゃる、若い精神科医さんの発表のあと、おきまりの質疑応答になりました。
 こういうとき、答えがすぐに出ると期待されるであろう質問以外はそうそうするべきではない、ということは良くわかります。質問者の自己満足みたいな、感想みたいな、ひけらかしみたいな質問って多いですからね。でも、内輪の研究会という雰囲気や、友人の友人であるという親しみやすさも手伝ってしまいまして、思わず聞いてしまいました。

「もしですね、私は意識の上では男であり、かつ身体の方も生物学的に男であるという人が、ある日『でもおまえの脳は検査の結果女脳だから』とかいわれて性転換を勧められる、とかいうことも起こりうるんでしょうか?」


 そのインチキSFみたいな質問は何なの、というお問い合わせもあろうかと思いますが、これ、発表の中で現在の性同一性障害に関しての仮説(でありおそらくは治療ないし性転換手術の正当化モデルでもあるのでしょうが)として、やはり脳のなんらかの障害があって、身体の性別と一致しないねじれが生じている、というモデルがいちばん有力である、という話を聞かされたときのことです。いわゆる『男脳、女脳』というやつですね。もちろん、かれはこんな言い回しはしませんでしたが。
 ありがたいことにこんな(少なくとも現在の段階ではまだ)非科学的な見解を金科玉条のように振り回すタイプのお医者さんではまったくないので、おかげでそんな茶々を入れるような(というか、それ以外のなにものでもない)質問も出来たわけですが、ちょこっと自己弁護をすれば、これ、意識=脳というモデルは確固として存在しているのですか?ということが聞きたかったわけでもあります。だって、脳だって生理的な器官なんだから、その脳と身体が齟齬を来すことがあり得るというなら、脳と意識が齟齬を来したって良いじゃん、と、なんとなく思ってしまうではありませんか。。。

 とはいえ、この戦線の複雑化は、ちょいとばかり現代的意味がありまして、たんにインチキSF的世界観を披露したかったと言うだけではありません。

 最近機会があって、フーコーの『知への意志』を読み直していました。ご存じのようにあまりに有名なこの本でフーコーは、いわゆるミクロな権力の明確化や、最近も話題の生-政治という概念を提起していたりするわけですが、今読むとある意味で平和だ、と思える点が一つ。やっぱり、フーコーにとっても、まとまりとしての人間の身体という前提は揺るがないのだろうか、ということです。
 別にこれはフーコーに対して何らかのアンチテーゼを述べているわけでは皆目ありません。どちらかというと、精神分析的な身体論というのがあるとすると、それは個人の身体でさえある意味では寸断されたものであり、そしてその寸断された別々の器官は、それぞれ別の、それこそフーコー的な「権力」に属するものであって、そこにさまざまな葛藤があるべきものではなかろうかしらん、という程度のことです。
 ん?それはドゥルーズ=ガタリでしょう、ついでに言えばその葛藤の調停機関としてファルスを持ち出すのが精神分析の悪癖で、って話じゃなかったの?という意見ももちろんありましょうし、だからフーコーはそんなことを書く必要もなかったろう、という意見もありましょう。

 ですが、この種の見解、いまとなってはこれもまたある種平和な見解でもあります。最近よく言われることですが、たとえばリストカットはかつてのようなメッセージ性を失いました。以前は、リストカットといえばヒステリー的な「ひけらかし」であって、それで死んでしまう人がいたとしてもそれは「自分の行為に追い越された」に他ならない(本人もビックリ、ってやつですね)、逆にその行為そのものの向けられた先、あるいは謎として構成されたその行為の解読を求められている、せがまれている先を考えるべき、という見解が多かったように思います。
 しかし、今、この種の解釈はかならずしも正当とばかりは限らなくなりました。それはたんに何らかの感覚を得るためのもの、であったりすることが増えたというのです。それは快感の時もあれば、あるいは生きている実感とか、もうちょっと哲学的なときもある。でも、かつては身体そのものはひとまとまりのもので、それが他者に向かって症状をメッセージとして発信していた時代とは、若干異なるかに思われる様相がいくつかかいま見えないこともない、そんな気がしてならないときもあります。

 次回は、その話をちょっと広げてみましょう。