ピアノの奇行師



Left hand di difficulte entirely orchestren, Chopin
It's model nice, better more melody, you know
And then the last part de Godowsky de orchestre.

 なんの話だそもそもなんだそのチャンポン語は!と思われるかもしれませんが、わたくしにとっては年来の謎が解けた瞬間です。
発言の主はウラディミール・ド・パハマン。1848年、オデッサ生まれのピアニストです。この発言の録音は1927年11月3日。もちろん、こんなご託をわざわざ好きこのんで録音する馬鹿はいません。おっさん、ショパンの黒鍵のエチュードを(Op.10-5)を弾きながらぶつくさぶつくさつぶやいていたので、演奏と一緒に声も入ってしまったのです。
 まあ、この話自体はけっこう有名で、いろんなところでこの種の彼の逸話を聞くことは出来ます。今回わざわざその話をしたのは、この冒頭の台詞をきっちり聞き取ってテキストに起こして対訳まで付けてくれた至れり尽くせりなCDが発売されたからです。Favarite Series: Pachmannがそれ。制作販売は日本のグリーンドア音楽出版さんで、どうも日本のコレクターさんの持っている状態のよいSPをそのまま再生して録音したもの、ということだそう。

 もちろん、パハマンの復刻CDは昔からすでにいくつかは出ています。1994年のOPAL盤とか、あるいはアメリカArbiter盤とか。ですがいかんせん元が1927年とかの録音のSPですから、あまりよい音質は望めないのは当然のこと。前者はジリパチの針音はひどいのですが、そこそこ音圧はあって、それなりに迫力を感じさせてはくれるものの、やっぱり無理やり音を前に出しすぎたのかどうか、妙にベタっとした色合いになっていた印象があります。パハマン初体験というわたくし個人の事情と、パハマンについてのイメージもあいまって、妖気漂うと言うよりちょっとおどろおどろしい感じがしたものです。他方後者はご自慢のリマスタリングシステムでずいぶんとノイズはとれているのですが、いかんせん音が遠くで、か細くなっている感じで、これはもうおもしろみもへったくれもない感じだったのでした。このレーベルから実はもう一枚最近出たのですが、ちょっと食指が動かない感じ。

 ですが、今度のグリーンドア盤は、まあ針音はずいぶんと残っているものの、ピアノの音はとてもしっかりとして、しかもありがたいことに十分に奥行きや立体感を残した響きになっています。ようやく、ひとりのピアニストの演奏になったという印象。そうやって聞くと、パハマンさんは、まあずいぶんと好き勝手なアーティキュレーションとか、あぶなっかしく着地する指のもつれたフレージングはともかくとして(まあ御年80近い頃の録音ですし)、どこかある種清潔さや風流さを残した演奏家という印象になってきたのだから不思議です。

 音楽に関してはプロでもなんでもない身なのですし、録音音質の善し悪しに至ってはほんっとに無知蒙昧な身ですから、余計なこと書いて人様にさらすものじゃない、ということは、前にコルトーについて書いた時も言い訳がましく前ふりにしていた記憶がありますが、その辺の気持ちはもちろん今度も同じです。けれど、おわかりの方も多いと思いますが、この手の復刻版、出るたびに「素晴らしく印象が代わり」「生まれ変わったような」とか、いろんな形容詞をつけてくれる皆さんがたくさんいて、結果同じ演奏の別盤を何枚も買ってそのたび微妙に悲しい思いをする、というのはよくあることです。グリーンドア音楽出版さんのを見たときの私もそんな気持ちで、うーん、お金の無駄っぽいなあ、と思いつつ、まあ葬送行進曲は持ってないし聴いてみたいから、これのために2500円出すか、と腹をくくって買ったのでした。ところがどうもまあこういう事情で、損はまるでなかった、という嬉しいお知らせ。迷っている方は買っても良いんじゃないかなあ、という、まあお買い得情報の一端として書いてみることにした次第でございます。

 ついでにいえば、冒頭にも書きましたように、丸山匡子さんというかたがパハマンの録音中のぶつぶつに対して書き起こしと対訳をつけてくれてもいます。4カ国語ちゃんぽんですから書き起こしはえらい難儀、まことありがたい次第です。他にも、パハマンについての逸話の紹介から当時の音楽批評、録音の事情に関してまで、手短ながら情報豊かなライナーノーツも付いています。以前、eBayでパハマンを検索した際、やたら当時のピアノの広告の出品が引っかかって、さて、高名なピアニストとはいえ奇人で見栄えもよろしくないこのおっさんをなぜ当時のメーカはわざわざ使ったのだろう、といぶかしく思った記憶があるのですが、ライナーノーツによると、小柄なパハマンさん用にペダルを特注してくれたメーカさんだったのだそうです。おっさん、足短かったのね。。。

 そうそう、ちなみに、録音に関しては面白い推論がこちらもライナーノーツに。おっさんがぶつぶつ言っている演奏に関して、音像がちょっとピアノから遠い、というのです。つまり・・・そう、入れようとしていたのですね、声を。グールドのスタッフさんとは大違いです。あれです、確信犯ってやつですね。。。

 まあそんなわけで、うむ、日本のマニアの仕事は凄い、と、ちょっと喜んでしまった次第。関係各位は本当におつかれさまでございます。
 ああ、そうそう、ちなみに本家(?)東芝EMIからも、この3月に出ています。(こちら)こちらは、うん、EMIの日頃の行いがアレなので、果てしな〜く期待薄で買っていないのですが。。。でも今回の件で浮かれているので、もしかしたらこれさえ買ってしまいかねない自分がちょっと嫌な今日この頃でございます。