ドリル式無意識

 前回から、キャシー・カルースの「トラウマ・物語・歴史 持ち主なき出来事」を見てきました。原題は"Unclaimed Experience"。その経験を自分のものとして主張するのなら、それは歴史的言語に、あるいは自分の権利として要求するなら法的言語に。訳者の下河辺先生が、「受取手のないまま手荷物受取所のコンベアの上をいつまでも回っている手荷物」という比喩で説明したという話もしておきました。

 でも、そうすると考えてしまいます。荷物なら、ベルトコンベアがある。その上に荷物を載せて回る何かがある。でも、経験には?持ち主の無い経験なのですから、経験した私のなかにあっては困る。でも、エーテル説よろしく、空気中に経験置き場があるとは言えないでしょう。アルヴァクスかユングのように「集合的記憶」のなかに保存とも言えない。そういえば、フロイトは「人間モーセ一神教」で、ユダヤ人によって引き受けられることの無かったモーゼの殺害をどこにおいていたのでしょうか?それは別なかたちに置き換えられた、別人の記憶と混同されて伝承されたモーセでした。それなら、抑圧と抑圧されたものの回帰は同じである、というラカンのテーゼを援用して、何か別のかたちで保存されている、というべきでしょうか。

 もう一つの解は、反復という答え。カルースのように、十全にその意味を捉えられたかたちで経験されなかったからこそ反復される、といってしまうのは、ちょっと簡略に過ぎるとは思います。しかし、ラカンのいうように、引き受けられなかった経験は、むしろ私を記録媒体にして、わたしの行為そのものによって記録される、と考えることは可能です。行為そのものによって記憶される、そのことにたいしてラカンはコンピュータのメモリのはなしをもちだしたこともありました。あれ、ノイマン以来、電子回路の中をうまずたゆまず回っていること、というまさにその運動によって維持されるものなのですから、おかしな話ではありませんね。

 しかし、カルースの本のいちばんいいところは、このトラウマの居場所の問題と、トラウマの伝達あるいは共有という問題を上手にリンクさせていることにあると言っていいと思います。
序文では「人間の行為の無意識的反復という謎としてのみでなく、傷の中から叫ぶ人間の声がもたらす他者性の謎としてトラウマ的体験を表現」(5)という言い方をしているところがあります。この時点では、トラウマ的体験の枠を他者性の謎に拡張しているだけのようにも見えます。つまり、他者の不可解さもトラウマだと。しかし、その声は、「自分の過去の『意図しない』トラウマ的出来事の記憶に取り憑かれた内部の他者の表象として考えることも可能」(13)であるとし、「自分の過去の出来事につながった個人の物語としてではなく、他者のトラウマに自分のトラウマが結びつけられる様子を表した物語と読むこともできるのではないだろうか。」(13)と捉え直すとき、世界は一気に広がりを見せます。この「共有」という問題をトラウマの問題の中心に据えたところが、カルースのなによりの美点でしょう。ほら、暗いだけの話にならないし。なにより、ここで、トラウマと歴史という問題は、そもそも《他者》のディスクールのなかに、それぞれがその鎖の輪の一つとして組み込まれるというかたちで、歴史というものが生まれてくること、と読み直すことが出来るのです。もっといってしまえば、こうしたトラウマの可能性が歴史というもの自体の存立の可能性なのである、と。そのことによって、われわれは《他者》のディスクールのなかに共通にある輪っかたちとして、一つの歴史の中に生きることになるのです。あるいは、なぜ個々人を包含するものとしての集団、その集団の歴史が可能になるのか、ということを説明するものといってもいいでしょう。もっといってしまえば、歴史とトラウマとは本来同じ出発点を持つもので、それは本来集団的なものでしかなかった経験を不可能になった事自体を指しているのだ、とも。

 さてもう一つ、この本のテーマの一つは、生き残ってしまったことのトラウマに関して。「トラウマの本質は、死に直面したことにあるのではなく、われ知らずのうちにその危機を生き延びてしまったことにある」(93)とカルースははっきり定義します。「自分が生き延びたことを主張するまさにそのために、人は反復という動作を行うのである。」(93)と。そして、モーセ一神教の読解を踏まえながら、「新しい神を奉じたユダヤ民族は、自分たちが生き延びたという事実を、神によって選ばれたしるしと見るかわりに、選ばれた事実が未来へ向けて発する理解不可能性と見たのである。・・・つかみ切れない未来へ向けて自分たちが投げ出されているという実感のことである。」(103)とカルースはいいます。

 問題は、この二つをどうつなげるのだろう、というところ。生き延びたということ。あるいは「なぜか無意味に自分が生き延びる存在に選ばれてしまった」ということ。そのことが持つトラウマ的な効果は否定しません。しかし、たしかにわれわれすべてもまた「つかみ切れない未来へ向けて」投げ出されているのですから、そこを通じて、他者のトラウマと自分のトラウマは結びつけることが出来るのかもしれない。にもかからわらず、非常に多くの場合でわれわれはそれに失敗してしまう。それはなぜなのだろうか。そして、ひとは本当にその共有を望むのだろうか。

 こうした不可解性の核、あるいは「内部の他者」。もちろんこの言い方には、フロイトが拒否した隣人愛の「隣人」を、ラカンがアレンジして使った「隣人」概念が反映されています。あなたの核にある他者でありながら、あなたにもっともよそよそしいもの。たしかに、この「隣人」という、あるいは「もの自体」という核、ないしは空胞を共有していることだけが、近代人の唯一の共通の運命だ、とラカンも認めています。しかし、どれだけの愛をもってしたら、ひとはその「隣人」をあなたに委ねてくれるのでしょう。あるいは、わたしの「隣人」をあなたが担うことが出来るのでしょう。そして、われわれはわれわれであるために、その隣人を人に委ねることなく自らに抱え込まねばならない、しかし、抱えきれない隣人をひとりで抱え込むが故に自らであることが不可能になってしまう、そんな二律背反の中にいるのではないでしょうか。
 本書の第2章、この書物の中でもっとも大部の紙幅を割かれた部分、それはこの伝達の可能性をカルースが求めた箇所です。デュラスの「広島、我が愛」の分析。このことは、わたくしからみると、とても象徴的です。しかしそれでも、確かに理解不可能性は共通の出発点となりうるが、にもかかわらずやはり何かもうワンステップが必要なのではないか、という感覚は残ります。

 そうそう、ちなみに、カルースはこんなことも書いています。


精神分析が生き延びるとすれば、それは、人々にしっかり理解された理論となって、真っ当な生涯を送るからではなく、完全に理解されなかった部分が繰り返し回帰し、生き返るというかたちで生き延びていくしかないとフロイトは言っているようだ。精神分析が伝承の中で継承されていくとすれば、皮肉なことに、これまで精神分析が生き延びてきた過程で十分理解されてこなかったことの中でこそ、われわれは精神分析の与える洞察と真の関係を結ぶことができる。」
 はっはっは、今回のネタの入り口と出口、こうして一致しました。それでは、お後がよろしいようで。