クレイマー、クレイマー


「去年の学生がおぼえたのと同じ内容をどうして今年もおぼえなきゃならないんだ」
「それは去年の学生が完全にはおぼえなかったからじゃないか?」
「そうか・・・」
「そしてオレたちもおぼえきれないから来年の学生も・・・」
こうして横の連帯感と同時に縦の連帯感もなんとなく生まれるのであった

(佐々木倫子動物のお医者さん」第6巻177頁、白水社文庫)

 いや、ここんとこ漫画つづきですが、このシーンを見るたびに昔からどうも「伝達」というものについて考えさせられます。
 おぼえきれなかったものが、あるいは果たされなかった課題が伝達される。これはどういうことでしょう。


「私はその回路の鎖の輪の一つです。それは例えば私の父のディスクールであり、しかも、私が絶対に再現すべく定められた過ちを私の父が行ったがゆえのものです。これが超自我と呼ばれるものです。私がその過ちを再現するよう定められているのは、私が父の遺したディスクールを受け継がなければならないからです。それも、単に私が父の息子だからではなく、誰もディスクールの連鎖を止めることが出来ず、私がこのディスクールを他の誰かに変な形のまま伝えることを余儀なくされているからです。私は他の誰かに、生を取り巻く状況についての問題を課すことになりますが、そこで彼もまたありとあらゆる機会に等しく躓きます。」(seminaire 2, 112)
 そう、この国試を前にした学生達のワンシーンは超自我、あるいは《他者》のディスクールという問題とよく似ています。
 さて、ここで考えなければいけないのは、「父の過ち」。学生達の試験で語られているように、それはたぶん、具体的にこれこれのことを失敗した、と語り継がれるような何かの大失敗ではなく、「おぼえられなかった」ものです。
 でも、おぼえられなかったのなら、それは忘れてしまったもの。忘れたんなら、そりゃ本人は明示的には知らないものでしょう。そして、学生達の場合もおおむねそうであるように、「自分が何を知らないのかも知らない」ものです。いや、わたしの場合はそうでしたが、もちろん人によっては「こっからここまでは完璧におぼえた。こっから先はおぼえていない」という感じに、「何を知らないか知っている」という場合もありそうではありますが。

 で、この話はじつはキャシー・カルースの「トラウマ・物語・歴史 持ち主なき出来事」の長い前ふりだったりします。ついでにいうと本文は短いの(予定)で、羊頭狗肉とはこのことだ、という感じですが。
 前回お話ししたフェルマンとカルースが仲の良い(?)お友達、というのは実は知らなかったのです。フェルマンの本には、カルースと議論した、ということや、おそらくはその議論を反映しているのであろう長い注というかノートが付いていたりしますし、このカルースの本にもフェルマンへの謝辞が付されています。もちろんそれをもっって「仲の良い」と言っていいのかどうかは別ですが。でも、どっちかっちゃおてんばな(死語?)フェルマンと、何かきまじめな印象がある(テーマのせいかもしれないけど)カルース、あんまり一緒のカテゴリーに入っていなかったのです。でも、フェルマンにも『ショアー』についての著作があるのですから、関係があっても当然ですね。

 ついでにいうと、カルースのお仕事はたまというかかなりというか自分の仕事領域とかぶるので、ちょっと書きにくい人ではあるのですが、前回フェルマンの話をしたついでもあるので、やっぱり手短に触れておきましょう。

 カルースのトラウマ論は、この本の副題、「持ち主無き経験」に見事に縮約されていて、じつはもうそれ以上語るほどのことはありません。誰かによって十全に引き受けられることが無かったが故に、いつまでも亡霊のように潜伏し、機会を捉えて再浮上してくるもの。その定義からして確実に遅延して、そしてはじめてでありながら二回目のものとして浮上するもの。
 ちなみに訳者の下河辺美知子先生は、本書の原題の"unclaimed"を、手荷物受取所"baggage claim"のイメージで語っています。誰も引き取り手がないので、受取所のベルトコンベアの上をいつまでもぐるぐる回っている荷物。これもまた、美しい比喩です。
 ついでながら言っておくと、当然のことながらclaimには法的な意味があります。原告だったり、請求だったり。そして、われらが碩学カルロ・ギンズブルグ先生の言うところによると、「ヒストリアhistoria」という言葉自体は医学用語と法律用語の交点なのだそうです。出自としては医学用語で、もろもろの事例や状況を見聞し、その自然的原因を探ること。そしてそれを陳述しようという際には、法廷で生まれた説得術の諸規則に従うのだ、と。(「裁判官と歴史家」上村忠男, 堤康徳訳、平凡社、1992、17頁)ですから、トラウマという問題において、医学と法が交錯し、そしてそこに歴史が生まれる、というのは、とても自然なことなのかもしれません。ここら辺は前回の流れの続きもかねてご紹介。

 それでは、次回はこの話の続きを考えていきましょう。