無意識保険

 「保険は言語のように無意識を構造化するだろうか」
 
 ラカンのパロディで、時々考えることです。このブルンナーさんの論文にも出ていますが、たとえばしばしばPTSDの症状の一つとして紹介されるフラッシュバックはテレビ等々で本当に技術的な意味で使われる「フラッシュバック」がなじみのものになるまで、症状としては記録されていない。(Jones, E., et al., Flashbacks and post-traumatic stress disorder. in British Journal of Psychiatry, 182, 158-163.)しかしくどいようですが、じゃあそれをフィクションといって片づけてしまうわけにはいかない。
 もちろん、誤解のないように言っておけば、こうした観点(例えばブルンナーの論文とか)に十分なじんでいる精神科医や臨床系のかたとお話ししていても、ここまで顕著に臨床家のバックグラウンドになる理論、あるいは保険に代表される社会制度に応じて症状を変えてくる、あるいは症状の流行が変遷するとは思わない、という方も多いということは述べておかねばなりません。これはまだ、早々にかつ軽々に結論を出せることではないのでしょう

 ショシャナ・フェルマンは(そういえば去年ひさびさに『語る身体のスキャンダル』が復刊してハッピーでしたが)その著書The Juridical Unconscious: Trials and Traumas in the Twentieth Centuryのなかで、これに関連したいくつかのことを論じています。ベンヤミンの『物語作者』、O. J. シンプソン事件、ハンナ・アーレントの『イェルサレムアイヒマン』を通じて法とトラウマの問題を論じたこの著作、刊行当時読んだときは必ずしも良い出来とは思えませんでしたし、今もその感覚は必ずしも変わりません。いわゆる「語り得ぬもの」としてのトラウマって議論に乗っかりすぎているのは、ラカニアンとしてどうよ?という感じもなくもないのですが。しかし、その議論の基調となるベンヤミンの『物語作者』から、われわれがすでに第一次世界大戦の時から「経験を伝える」能力を失ってしまったという指摘は、ここでも貴重なものです。
 われわれに残されたのは、法廷において立証すること。ですから、法廷とは私的な、トラウマ的な何かを公的な、集団のものにしていくこと。しかしそれは、経験の「伝達」とは果てしなく異なったものです。法の言語と文学の言語。立証と伝達。事実とフィクション。
 われわれがいる場所は正確にその狭間、ギャップです。われわれはそれを語るべき言葉を持たないから、それをなじみの物語に変えて語る。そうするとこれはもう、立証にはなりません。かといって、立証もまたわれわれの経験の伝達を助け、未来に橋を架けてくれるものであるとはいえ、しかしやはりわれわれが経験を語ることを可能にするわけでもない。それはある意味では二次的なトラウマを与えることしかしないかもしれません。ですから、そこに残るのは沈黙だけ。沈黙を通じての伝達が、果たして可能なのでしょうか。これもまた、簡単に答えられることではありません。そしておそらくは、この沈黙が反復を招く。そして、その反復はある意味ではアクティングアウトにも似た司法の場へとむけられていく。だからこその、『司法的無意識』というタイトルなのでしょうが。

 いや、そんな伝達のありかたを、先日テレビで再放送された「グリーンマイル」を見ながら考えていたとかいう事実は口が裂けても内緒にしておきたいところなのですが(『薔薇の名前』とマルブランシュといい、テレビに釣られすぎ)ともあれ、ブルンナーさんの論文で言えば「年金闘争」とか、われわれはとかくことをそういう疾病利得の領域で捉えがちです。ですが根本には、われわれの時代において、疾病と保険、あるいはトラウマと法廷というやりとり以外に、この精神と身体のあいまいな境目に入り込んだ社会的紐帯、あるいは《他者》が存在しないという事実もまた、確認しておくべきでしょう。ことを「精神と身体のあいまいな境目」などというちょっと精神分析よりすぎるかたちで語らなければ、これは医療人類学的にもごく当たり前のテーマに成りうるもの、と言っていいことですし。

 そのことはまた、いわゆる「偽記憶症候群」の問題とも絡んできます。トラウマの記憶の中に現れる性的虐待。訴えられる父親。しかし、その記憶が本当なのか?というアレですね。そして実際しばしばそれは事実でないこともあり得る。
 それでもって、この問題はすでに100年前から知られている、ということも、よく言われることです。実際、フロイトはそのためにエディプスコンプレックスという概念を生み出して、別なかたちで解決を図った、あるいは保留したとも言えることですし。もっともおかげでトラウマ病因説反対派からは「フロイトという人のいい加減な学説のせいで」とトラウマ原因説荷担論者のように扱われ、賛成派のほうからは「裏切ってすべてを幻想扱いしたせいで二次的なトラウマを生み出した」と言われてしまうわけですが。

 まあその問題はさておき、100年前との違いで私が考えたのは、その時点で訴訟にまでなったケースはあったのだろうか、ということです。資料をぱっと見る限り、あまり聞かない話。逆に現代では、娘に性的虐待で訴えられた父親が無罪を主張して自殺、というようなケースもしばしば報告されます。
 もちろん、訴訟天国アメリカだから、という考え方は成り立つのですが、それにしてもやはり違和感があります。あの時代にはあり、われわれの時代には失われた、何か別の言説化装置があるのだろうと。それは、あるいは主体というものがかつてもっていたキャパシティ、つまり内面化への力動の違いなのかもしれません。

 トビー・ナタンをはじめとする民俗精神療法などでしばしば言われることですが、基本的には、トラウマというものを設定し、それを個人の歴史の中に存在するものとして仮定する治療理論はきわめて西洋近代に独自なものです。むしろなんらかの「目に見えないもの」というある種の超越的な力(まあ地霊でもジンでもなんでもいいですが)とのダイアローグに転移されるケースのほうが遙かに多い。そのことによってひとは、諸々の儀式や呪術等を通じて、原因を外在化、物質化し、共同体の神話の再創造によってそれを再組み込み化していきます。
 ある意味では、アメリカの法廷と保険というのは、このパロディのような印象さえ受けるのです。共同体の神話装置と、その呪術的なフェティッシュ化。残念ながらわれわれのフェティッシュは保険金でしかないわけですが、これがナラティブセラピーになると、たとえば「承認書」「認定書」みたいなものを発行しよう!みたいな学派もあるようです。みんなの前であなたはあなたなりに解釈した自分の歴史を話し、それをみんなで討議し共有し、その共有の証を再認しましょう、みたいな。そのポストモダンちっくな理論武装にもかかわらず、結局《他者》の承認、という問題から抜けきれないところに、今ひとつ、いわゆる「物語論」というものを信用しきれない思いがするのですが、いかがなものでしょう。

 われわれの精神と身体の継ぎ目に入り込む他者の言説と、その外在化。ラカン派なら、それは症状の身体化と対象a、という形を取るでしょう。あるいはより伝統的な精神療法では、共同体による神話化において、身体操作を含む諸儀式と、その際に用いられる呪物に。そしてアメリカのディスクールでは?それが法廷のドラマに保険金なのだろうか、そんな構造化が、いまのところの漠然としたアイデアです。ブルンナーさんの論文は、ある意味で、この近代の歴史の最初の部分を描いてくれています。まあ少なくとも、わたくしにとっては。