脊髄震盪?

 さて、前回は、前世紀半ば、鉄道事故の補償をめぐってトラウマという問題が浮上したのだ、というはなしをしました。

もちろん事故が起きれば、そりゃ怪我もするし、神経系の損傷も起こすかもしれず、そしたらなにか身体症状が出てもおかしくはない。でも、その出方は若干不合理です。損傷は目に見えないし、別に事故ってほどの事故があったわけでもないときにも発症するかもしれない。
 ん?どういうこと?と思われるかもしれませんが、要するにたんに揺られているだけでも発症するかもしれない、ということです。当時の医師、ロンドン大学臨床外科教授エリック・エリクセンさんの『鉄道、ならびに神経系の損傷について』という本では、脊髄震盪という概念でそれは説明されていたりします。
 歴史家たちはまた、鉄道というテクノロジーの持つ衝撃を描いています。「大量輸送の到来と結びついた漠然としながらも強烈な不安感が集約され伝達されていった」(Harrington, 2000)、「鉄道によって、人間の神経系が、恐怖のほんの一瞬のうちに解体してしまうのではないか」(Drinka, 1984)などなど、当時の世相が描かれているわけですね。さらには「近代の民事過失法は、人体を粉々にする驚異的な力を持つ機械類を生み出した産業革命に由来すると見なければならない」(Friedman,1985)というような法制史家の見解も紹介されています。そして、その事故が機械の引き起こす危険である以上、その所有者ないしは操作者が、危険にたいして責任を負うことになる、と。

 こうした諸々の要員が重なり合って、トラウマは賠償が適当であること、が一つの言説として成立していくことになります。こうして、鉄道事故のあとになんらかの身体症状に苦しむことになった被害者には、民事過失法のおかげで法的な選択権が生まれたことになります。同時に、鉄道会社の側からすれば、それを打ち消すアンチテーゼが必要になります。ヒステリーという言葉はこのために使われました。つまり、ヒステリーは意志の機能が低下して、身体の統御抑制が利かなくなったという状態であり、ですから患者が「しっかりすれば」済む話、つまるところ、仮病とまではいわなくとも「軟弱」くらいに扱えるものだ、ということです。さきのエリクセンさんに論駁して『外科および法医学の観点における、歴然たる力学的病変が見られない脊柱脊髄損傷と神経性ショック』を発表したハーバート・ウィリアム・ペイジは、ロンドンおよびノースウェスタン鉄道会社の専属医でした。
 この問題は、より保険制度の充実したドイツでさらにやっかいな問題となりました。1889年に帝国保健庁が下した裁定によって、トラウマに苦しむ労働者たちが年金賠償を請求できるようになっていたからです。こうなると、問題は年金詐取の疑念。医者達は仮病を見抜くこともまた立派なお仕事と考えるようになります。いわゆる「仮病論争」(Simulationsstreit)です。そう、シミュレーションですね。サッカーの反則のアレと一緒です。ついでにいうと、ある先生は「いくつかの診療所が社会民主主義の活動家の巣窟になっていて、患者はそこでトラウマ性ノイローゼの症状をでっちあげる訓練を受けている」とも主張していたそうで、こうなると昨今の一部のネット言論にとてもよく似てきます。まあ、昔も今も変わらないのですね。

 さて、この状況で、ベルリン大学付属病院院長で神経科医だったヘルマン・オッペンハイムさん(フロイトも初期の論文ではちょくちょく引用していますね)は、司法訴訟が決着した(ということは、年金も付く)あとも多数の患者たちの症状は快方に向かわない、ということを指摘しています。そして、むしろ訴訟の過程でそのプレッシャーで症状が悪化することもあり得る、つまり第二次病因という性格を帯びることもあり得る、とも指摘しました。もちろん反対意見もありましたが、それによって結審の速度が迅速化した、ということもあったそう。

 しかし、ここでは、たんに「二次的な」病因というだけでなく、法律そのものが、症状を固定化させる(=年金が取れるから症状を持続させる)か、あるいは症状を悪化させる(=司法の結審に至るまでのストレスで)というかたちで、病因のカテゴリーに入ってくるようになったのです。

 このことの帰結はさておいて、とりあえずその後の歴史的展開をまずフォローしておきましょう。第一次大戦の勃発は、この論争の主人公を労働者から兵士に変えました。そして、その経験を通じてドイツの神経科医たちはオッペンハイムの見解をほぼ否定する流れに傾きます。トラウマ性の障害は一種のヒステリー、つまり意志の病気、自己抑制の欠如と見なされるようになる。そして、1926年の帝国保険庁の決定にもとづいて、1929年、帝国最高裁判所は、トラウマによって引き起こされた就労不能状況にたいしてはいかなる年金請求も出来ないとする判決を下すことになります。

 さて、この段階で、すでに基本的なモチーフはほぼ出そろったことになります。一方では、患者は潜在的顕在的に被害者という役回りに自分たちを固定してしまうかもしれないが、象徴的、物質的にも権利の回復を要求でき、精神的苦痛は医学的にも法的にも公認された疾病に関する訴えへ翻訳され、公認されていくことになります。他方で、医師は一方では証人尋問、保健査定の役割を担うか、あるいは同情的な役割に回るか、という分裂にさらされることになります。医学が法化するか、法が医学化するか、とブルンナーはまとめています。

 さて、次回はまとめもかねて、この歴史的過程が現代にどのように意味を持つのかを考えてみましょう。