鉄道

 先日も痛ましい鉄道事故がありました。ふだんよく見知っている大学の、それもまだ若い学生さんも多かったということで、ひときわ心の痛む事故でした。亡くなられた方々には心からのおくやみを申し上げます。

 同時に、生き残った方々の、いわゆる心のケア、という問題も浮上してきます。当然のことながら、問題はPTSD、という枠で理解されることになるのでしょうが、実はPTSD鉄道事故とは、切っても切り離せない歴史的関係を持っています。ここのところそのことを考える機会が多かったのですが。今日はちょこっとその話。

 アラン・ヤングの『PTSDの医療人類学』が克明にレポートしているように、PTSDとは本来、現代において世界的に基準となっているDSM-IV精神疾患の診断・統計マニュアルのポリシーにはそぐわない、というか入るべきではない概念です。
 DSMは、その名の通り、診断と統計のマニュアル。その大原則の一つは、「病因を問うてはならない」というところにあります。学派によってまちまちであった病因論を診断基準に入れるときりがない、だから、とりあえず病像をリストアップして、そのリストのうち何項目か以上が診断基準に当てはまれば、その診断を下す、という立場です。簡単に言うと。ですから、PTSDに代表されるいくつかの診断基準に「強いストレス」という、なんらかの原因と措定されうるような因子が入ってくることは、ちょっと違和感があるべきなのです。
 ヤングが描いているように、DSM-IIIでその採用に至る過程には、米軍のベトナム戦争の傷病軍人会の圧力が関与しています。いや、一概に圧力という言い方は誤解を招きますね。すくなくとも、それは戦場で傷ついた兵士たちにとっても、またかれらを周囲で見守る家族や臨床家にとっても、もっとも妥当な説明図式であると思われたからこそ支持されたのでしょう。

 しかし、いつの世もそうであるように、治療という問題には治療費という問題が必ずお供でやってきます。そして現代においては、治療費には保険という問題が、これまた管理人然として付いてきます。アメリカの場合は保険会社ですね。ですから、保険会社にとっては、契約者の症状が明確な診療基準に照らして一律に判断可能なもので、しかもそれを国ないし医師会といった公的な基準が保証してくれないと、とても困るのです。保険出せませんしね。ですから、保険会社の圧力もまたここには関与します。日本でも、臨床心理士のカウンセリングに保険を適用する際の問題が色々と議論になりました。というか、まあ今でもたぶんに問題含みであったりします。そして保険が絡むとそこにはまた文科省厚生労働省がうんぬん、となるので、まあこの話はこのへんでやめるとするとして、実はこの問題は、19世紀の中頃から存在する問題だったのです。そして、そのきっかけこそが鉄道事故の労災補償問題だった、というのは、よく知られている話です。
 最近ですと、森茂起さんの『トラウマの発見』にもそのあたりの話がわかりやすく紹介されていますが、ここでは雑誌『思想』掲載のジョゼ・ブルンナー『傷つきやすい個人の歴史 トラウマ性障害をめぐる言説における医療、法律、政治』(多賀健太郎訳、岩波書店、2005年4月号pp.5-43)を見てみましょう。

 ブルンナーの基本的なスタンスは、この副題からもわかるように「政治と社会は、実際に起こった事件とトラウマをめぐる医学的言説にとって、たんに外部のコンテクストにとどまるものではない。社会や文化が変化するとともに、トラウマ性障害の症状の構造もまた変化するのである。」(14)というものです。トラウマは「社会的行為の当事者、つまりは、社会的行為の結果によって植え付けられるので、トラウマの配分は、社会的秩序(ないし障害)に深く刻み込まれている。」(14)ですから、「トラウマは心理現象であるのと同じく社会現象でもある」(14)ことになります。そしてトラウマという言説そのものの背景としては、19世紀後半に西側で形成され始めた民主主義のエートスがある、とブルンナーは指摘します。「個人が権利や責任の自立的な担い手であることが言明される一方で、個人は、根本的に傷つきやすいことが認められるようになり、それゆえに、個人が心傷をも含む障害を蒙ったとすれば、保護や補償に値するものとみなされるのである」(15)とブルンナーはいいます。

 まあ、この「民主主義のエートス」は、ちょっとばかりおおざっぱで、本人もまあ仮説としか思っていないでしょうから、それはそれでいいとして、少なくとも臨床家にあわせて、そしておそらくは臨床家が依拠する理論から保険制度、投薬のシステムに至るまで、患者さんが自分の症状の出し方やそのストラテジーを変えて来るというのは、これは昔からよく知られた事実でもあります。フェレンツィはいいました。ハンガリーのことわざでも、鶏は粟の、豚はトウモロコシの夢を見る、という(もしかしたら動物とそのえさの組み合わせが違うかもしれない。。。)。患者もまたしかり、と。これはジジェクも書いていますが、クライアントさんもラカン派の臨床家にかかればラカン派風の、ユング派にかかればユング派風の夢を見、症状を呈するようになるものです。この可変性、患者さんのストラテジーといいましたが、別に意識してやっているから仮病だとか、医者にあわせて症状が変わるなんてそんな馬鹿なだから精神療法は信用がならない、などといいだしてもはじまりません。

 ほかの理論はともかく、精神分析はこの点には初めから非常に明確な立場を取っていたとはいっていいでしょう。それは、精神分析がひとえにヒステリー者をその理論の母と見なしているからだ、とわたし個人は考えています。前々回でしたかマルブランシュの話をしながら、ちょこっと触れましたように、精神と身体のあいだには、なにか別の層がもう一枚噛んでいる。マルブランシュの場合はそれが神様だったわけですが、まあその辺はマルブランシュ師匠におまかせするとして、そこに患者の歴史、あるいは患者をめぐる他者達のかたらい、さらには言語というものと見て取ることも出来る、というのが、精神分析の理論化の第一歩です。そんなわけでラカンせんせいは、「無意識は《他者》のディスクールである」ということもできたし、「無意識は一つの言語活動として構造化されている」ということもできたのでした。そういえばそう定式化される以前、セミネールの一巻あたりの段階では「症状は一つの言語活動として構造化されている」とのたまわっていましたね。

 うんうんそれはわかったけど、それは精神分析的な立場限定なんじゃないのかなあ、という見方も出来ますが、この見方を設定しておくと、ある程度歴史的な連続性をもって事態を見ることが出来る、というメリットがあります。イニシエーションほか諸々の儀式に代表されるシステムを有していた社会は、ある意味ではこの接点の部分を直接的に操作するノウハウがあった、とラカンはいいます。


「授業の終わりに際して強調しておきたいのは、ずっと以前からイニシエーションというものがもたらされてきたではないかということです。それはオカルト主義のかけらです。・・・そこにはおそらく享楽の科学があるのです、いってみれば。イニシエーションにはほかの定義はあり得ません。我々の時代にはそのかけらでさえ残っていないというのは端的に不幸なことです。」(1973.11.20)
 まあそういうわけで、この「享楽の科学」、どこまで続き、どこで失われるか、が問題になります。ラカンせんせいは、キリスト教社会においては禁じられるもの、という風に捉えていた感じもありますが、実際にはマルク・ブロックが『王の奇跡』で描いていたように、王権にもそうした性格はありました。では王権が倒れたあとには?ちょうどフランス革命のどさくさの前後に、メスメルの磁気術が登場したことを忘れてはいけません。エランベルジュがそこに「王の奇跡」の末裔を見て取ったように、磁気術は非常にしばしば、領主と農奴といった権力関係の元で行われていました。磁気術から催眠へ。そして精神分析へ。一連の流れはこの「享楽の科学」とその伝承という風に考えることも出来ます。そうすると、あるいはこの先の享楽の科学とはなんだろう、とも考えさせられるのですが、それはまた別の話。

 さて、ちょっと話が脇に逸れましたが、鉄道事故はトラウマという問題が社会化される最初のきっかけでした。なぜ鉄道だったのか。
 次回はその話に戻って議論を進めましょう。