自分の死にすら気づくまい

 子供の頃疑問に思っていたのに、結局解消することないまま大人になってしまった問題というのはいくつかあるものですが、わたくしにとってそのひとつは、漫才のオール巨人阪神さん、あれ、大男の巨人さんの半分くらいしかない小男だから阪神=半身だよね?ということ。うん、たぶんそれで正しいとどこかで聞いたような気もするのですが、さてどうだったでしょうか。

 まあそれはともかく、今回取り上げるのは半身ではなく、『半神』。萩尾望都1984年1月の作品です。収録は同題の小学館文庫の方で。

 最近は少女漫画を読む男性もけっして少なくありませんが、わたくしは残念ながらほとんど読みません。たまさかきっかけのあった本だけ人から借りて読む、という程度。だからといって、けっして嫌いということではなく、むしろおおかたの少年コミックに比べてなんて凝っているんだ、と感心することの方が多いのです。もちろん、そういう作品を選んで周りが貸してくれるから、でもあるのでしょうが。ちなみに知人の知人(ずいぶん遠い・・・)は、少年漫画は基本的に二声構造、少女漫画は四声構造、と、レヴィ・ストロースもびっくりの分析をしていたことがあったそう。何が二声で何が四声なのか聞きそびれてしまったのが(というか知人がうろ覚えだったのが)残念ですが、たしか少年漫画の方は登場人物たちの直接的会話とナレーション、少女漫画はそれプラス自分の内声と相手の内声だったかなあ、と記憶しています。だれか詳しそうなひとにこの方向で研究を続けてもらえば、と、密かに思っているのですが、まあ人様にわけのわからん研究課題を押しつけるのはやめるとして。もっとも、詳しい方でこの点に関して知見がある、という方は教えて頂ければ幸いです。

 ちなみに、この研究のヴァリエーションで、自慰行為に伴う幻想における人称および視点の男女差について、というネタも生まれたのでした。それはまた別の機会に。

 で、『半神』、知っている方の方が多いのではないかと思いますが、簡単にあらすじを説明すると、いわゆるシャム双生児と申しましょうか(結合双生児というのだそうですね)、身体が腰のあたりでぴったりとくっついて生まれてきた双子の女の子の話。ペドちゃんドクちゃんとか、ご記憶の方も多いかもしれません。この作品では、妹は自分で栄養を吸収することが出来ず、姉の内臓がフル回転して二人前養っている、という設定になっています。二人前養っている姉は栄養を持って行かれる一方で醜くやせ衰えるだけ、その聡明な知性にもかかわらず愛されない少女です。他方ただ飯食っている妹は、知的にも障害があり、言葉もままならず、身体も弱く自力で歩くことさえかないませんが、天使のように美しい。

 しかし、双子が13歳を迎える頃、運命は分かれます。ここまで大きくなって二人前養うのは、もう限界。姉は痩せ衰えていく一方です。切り離さないとどちらも死んでしまう。もちろん、切り離しても、自前で栄養を吸収できない妹は死んでしまう。ですが姉は一も二もなくこの手術を受け入れいます。


わたしがいつもささえて歩いた妹
なんの悩みもなく笑うだけの妹
自分の死にすら気づくまい

 「自分の死にすら気づくまい」ってきっついわ〜、と思いながら読んだ少年時代の記憶は鮮明ですが、問題はこれから先。成功した分離手術のあと、姉は妹を見舞います。自力で栄養を吸収できない妹は痩せ衰え、微笑みながら死を待ちます。姉のいうとおり、じぶんの死に気づくこともなく。痩せ衰える妹は、どんどんかつての自分に似ていき、そしてそのまま死んでいく。栄養をすべて自前に回せるようになった姉はどんどんと美しく成長し、華やいだ人並みの思春期を迎えます。しかし、鏡のなかにうつるのは、美しかったかつての妹にどんどんと似ていく自分。では、引き離され痩せ衰えて死んでいったのは?あれが自分だったのか?


愛よりももっと深く愛していたよおまえを
憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよおまえを
わたしに重なる影
わたしの神

 16頁の短編でここまで濃密なことに、少年時代はただただ驚いたものですが、いま見るとこれ、母娘葛藤のメタファーなのかなあ、というのが、数年前になりますが、文庫化を期にこの作品をふたたび手に取ったきっかけでした。
 じっさい、母親側からの見方を重ねることは難しくありません。この妹は明らかに乳児、それも母にとっての娘のメタファーです。立つことも歩くことも話すこともままならずただ笑うだけ、そして自分の栄養を吸い取って美しく成長していく。
 しかし、話は突然の分離手術によって突然娘側からに入れ替わってしまう。かつて美しかった母はどんどん痩せ衰え、死んでいく。そして自分はその美しかった母親にどんどん似ていく。

 まあここまではいいのですが、この分析、臨床心理士から精神科医までのプロを含む女性陣たちから、あまり評判が良くなかったのです。(ですから男性諸氏はこの解釈、まだ使わないでください)。全員子供がいない女性たちだったからじゃないの〜?と、強弁してみたい気もするのですが、まあ失敗にはすべからく理由があるはずです。居直っても仕方がない。

 ひとつには、読み手の側がこの視点、アングルの切り替えに上手く追いつけないからではなかろうか、とも思うのですが、それにも理由はなくもありません。この読解で行くと、娘側にも、「かつて自分は醜かった」という自己認識があることが必要になります。だからこそ醜く老いさらばえていく母親と重なるのですから。しかし、残念ながら人間、昔は可愛くて幸せで、という幼年期神話を持っているケースがほとんどですから、ここで納得してもらえない可能性は高い。
 そこをフォローするためにはたぶん、もう一世代付け加えて前後の世代に挟まれるケースの方がいいのかもしれない、とも言えます。つまり、祖母、母、娘という三世代にしてしまって、母の視点からのケースを想定する。そうすると、かつて美しかった、そして次第に老いていく自分は母に、かつて美しかった自分はどんどん美しくなる娘に、というかたちで、母親の居場所を二つに引き裂くことができます。でも、これだと『半神』のあの閉じた鏡のなかの鏡のようなめまいが消えてしまいます。これじゃ普通の世代交代だもの。もちろん、普通の世代交代が、母娘葛藤を、とくに母の側を基点として、引き起こさないわけではないのでしょうが。

 この作品、ラカニアン的な視点からは、どうしても鏡像的と捉えたいという誘惑に駆られます。だって双子だし。まさに相手の中に自分のあるべき理想の全体像があるじゃないか、と。でも、おそらくそう取るべきではないのでしょう。
 ラカンは、対象a胎盤にたとえていたことがあります。わたしとひとつのもの、わたしの半身。しかし、生まれてくるためには離ればなれ、切り捨てられねばならないもの。一つであれば、あるいは神だったかもしれないもの。
 という風に考えたのは、一つには、対象aのもつ時軸のねじれの問題があります。鏡像的な小文字のaがむしろ時間の停止、ストップモーションをイメージさせるものであるとすると、対象aは同じように時間軸の停止を含みながらも、同時にそれをねじれた方向に開かせるようなところがあります。欲望の対象というなら、それは獲得されるべき未来でなくてはなりません。しかし、失われた対象というなら、それは過去でなくてはなりません。過去が未来なのか未来が過去なのか。妹が私なのか私が妹なのか。無意識は無時間的であるとフロイトはいいましたが、おそらくはそれとは少し違った意味で、対象aには通常の時系列に並ぶ時間性が欠けています。

 とはいえ、最初に戻りますが、これを母娘葛藤と重ねる仮説は、女性陣にいまひとつ受けませんでした。たぶん、まだ何か見落としていることがあるに違いありません。そしてそれはおそらく、ラカン理論の中でわたくしが見落としていることとも重なるのだろうなあ、という気がするのです。

 しかし、改めて読み返すとこの短編集、ほかにも1980年の『酔夢』など、結構分析的なお話が多いのです。『酔夢』では、SFでよくあるパターンですが、同じ時間が反復している世界が舞台(ついでながら、この短編集、時空間の反復という主題、多いですね。)主人公もそのことに気づいています。そして、「時空間のトラウマとその治癒の試み」として、現実は同じ主題をめぐって反復し、そして主人公の夢もまた同じ主題を繰り返し反復し、というより現実は主人公の夢の反復のヴァリエーションの一つとして反復しており、と思いきやそれ自体もまた別の登場人物の夢と現実の反復の内部でしかなく・・・という複雑な入れ子構造が続いていきます。主人公はこの場合、時空ないし歴史の反復構造の、その乗り物ないし媒体でしかない。この時代なら、人文書院フロイト著作集はもう訳出があったかなあ、たぶんというか間違いなく知ってて書いたんだろうなあ、などとおもいながら読みましたが、それにしてもこれ、反復という点で快感原則の彼岸を、そして時空間のトラウマという、歴史的反復の主題としては人間モーゼと一神教を、みごとに圧縮しています。