最初のヴァーチャル人間

 精神分析の経験はヒステリーからはじまりました。

 と話を始めるのは、もうすっかり定番なのですが、まあ何度強調してもしすぎることはないでしょう。
 簡単に言えばそれは、意識と身体の(ラカン風にいえば、肉と皮の)あいだに、もう一枚なにか違うレイヤーというか層が入っているのではないか、ということです。たとえば、身体の一部、膝下なら膝下が麻痺して動かない、と言ってきた患者さんがいるとする。身体、という観点から言えば、その症状はおかしなものです。神経学的に見て麻痺している領域がおかしい、と。端的に、神経の分布は身体の文化的な分節化(それこそ膝下、とか)とは一致していません。シャルコー時代のお医者さんたちは、身体が言語を知っているみたいじゃないですか、とジョークのネタにしていたそうな。
 じゃあ、仮病?という発想が出てきて当然です。でも、たとえば相手に気づかれないように針でつついてみるとか、刺激を加えても反射が起きない。この辺は、意識のコントロールで何とかなるわけではありません。我慢っていったって限度があるし。

 というわけで、じゃあ意識と身体を繋ぐもう一つ別の層があって、そこに異常が起きている、と発想するのは、それほど突飛なことではなかったのでしょう、と思われます。脳からの司令が神経に行く途中で、あるいは神経からの信号が脳に行く途中で、というとなにやら聞こえはもっともらしくなりますが、この辺は素人がどうこういうべきことではありません。自分がより知っている範囲に話を戻しましょう。ああ、これ、心身二元論のヴァリエーションとしても読めるのね、ということです。まあ、これもよく言われていることではありますが。

 で、ここまでのびみょうにインチキ臭いはなしをまくらに持ってきたのは、今回ご紹介するマルブランシュの形而上学と宗教についての対話のためでございます。
De Malebranche ou de Locke, Plus malin le plus loufoque... (ecrits, 563)

 当時のフランスの哲学学生のあいだで言われていたネタらしいですが、なんでこんなに馬鹿にされないといけないのかはともかく、日本でもマルブランシュの翻訳はとても少なく、まとまった著作はこれがほとんど始めて、といっていいのではないかとおもいます。あとはデカルトについて論じた山田弘明氏の真理の形而上学に、マルブランシュ「観念の本性について」が訳されている程度でしょうか。大著「真理の探求」は1949年に第一巻が竹内良知訳で創元社から出ていますが、それっきりのようですね。古書でもお目にかかれません。今回の形而上学と宗教についての対話は、才能ある見目麗しい(推定)若者と、そのお師匠さん格のおじさまの対話篇、というスタイルを取っています。なんかちょっと「薔薇の名前」を思い出させる雰囲気、と感じたのは、ちょうど深夜に再放送しているのを見ながら読んでいたからなのですが。。。原書を持っていないので訳については何とも言いかねますが、十分そうした雰囲気を伝えさせてくれていたように思います。

 というわけで、マルブランシュさん。1638年〜1715年。司祭にして王立科学アカデミー会員であり、その主著『真理探究論』が禁書目録に載ってたりと、まあいろいろ大変な人生を送っていらっしゃったようです。
 その「機会原因論」というのは、とても有名です。この時代のトピックのひとつは、心身の二元論でした。精神と物質(としての身体)というのは、どう考えても相互につながりはなさそうである。じゃあ、その二つを連結するのはなんだろう。どうして精神は身体を動かすことができるのかしら。デカルトの仮説が「松果体」であったことはよく知られていますが、マルブランシュがかわりに持ち出したのは、神様。

 そう、精神からの指令は(いや、指令などという不敬な言い方はやめて、お願いというべきでしょうか)すべて神様を経由するのです。そして、その神様がそのお願いを聞き入れて、よっこらせと身体を動かしてくれる。なかなかいい話です。神経というのは「神を経由する」の略だったのか、と感動してしまうくらい。そして、この「神」を《他者》としての「無意識」に入れ替えてしまえば、簡単に精神分析がでてくることは、すでにジジェクが指摘しています。

 しかし、ここで見るマルブランシュのおもしろいところは、ある意味でかれがヴァーチャルリアリティーの先駆けであった、というところでしょう。
 ヴァーチャルリアリティーといってもそこに託される意味はさまざまでしょうが、ここはとりあえずそのもっともSFチックなイメージを思い浮かべてください。さまざまなモニタに囲まれた部屋の住人。かれは外界の情報は何もかも、そのモニタを通じて獲得します。
 マルブランシュの神様はある意味でこの部屋の住人に似ています。かれは外界を完全に知覚する。しかし、人間であれば、そこから引き起こされる感情に惑わされてしまうところを、神様はその完全なる知性を持って統覚するだけです。「神は痛みを感知せず、しかも痛みを完璧に認識する。」それはまるで、ロールプレイングゲームの中での自分のキャラクターが、いくらいくらのダメージを追ったのかを数値的に把握しているゲーマーのような印象さえ与えます。でも、それが心身の結合は神様を経由するということの意味でもあります。残念ながら、人間はそこまで立派にはなれず、罪を犯して神様からはちょいとばかり遠くなってしまいました。ですから、可哀想な人間は痛みに襲われればほかの何も考えることができなくなったり、等々、この感覚に隷従するようになってしまったのです。もっとも、だからといって感覚がすべてこのようにやっかいなものだ、というほどに短絡なことは言わなかった、ということもつけくわえておかねばなりませんが。

 ヴァーチャルリアリティーの第二番目をあげるとすると、それは第一対話ののっけからはじまるそれでしょう。お師匠様ことテオドールは問います。もし神が君(お弟子さんことアリスト)と私の身体を残してすべての物体を無化したとしよう。そして同時に、(たった今無化されてしまった)今そこにあるはずのものの痕跡を脳に植え付ける。あるいは、私たちの精神にそこにあるものと同じすべての観念を余すところなく現出させる。このとき、われわれはどちらの世界に生きるか。お師匠様、困ったことに何の迷いもなく、この叡知的世界に生きるはずじゃないか!と曰うのです。そおかなあ、って気もしますが、まあそうらしい。マトリクスだったら迷わず主人公を裏切る坊主頭の白人のおっさんになりそうです。そう、この世界、よく似ていますよね、マトリクスと。

 でも、べつにこれは現実拒否で理念的な神の国に遊びたがる、昔ながらの哲学者の夢、という訳ではありません。「観念の本性について」にはよりはっきりとテーゼとして打ち出されていますが、人間は観念を産出する能力を持ちません。観念はすべて神様謹製なのであり、従って、人間がものを見るときは、本来神の御許で見るのです。人間が無限のものを認識できるはずはない、にも関わらず人間はそれをある程度認識しうる。それは、たとえばこの世にある無限の円を認識することはできなくとも、円の定義を知っていれば、事実上無限の円を把握できるからです。この種の円の概念を、マルブランシュは叡知的延長と呼びます。まあその是非はともかく、マルブランシュはここではある種の実在論に立つことは間違いない。

 ですが、ここで、マルブランシュはこの種のヴァーチャルリアリティーの裏面とでも言うべきものをしっかり意識しているということも触れておかねばなりません。


「私の存在については、同じようには行かない。私は私の存在の観念を所有していない。・・・私は、私自身の方を向くことによっては、自分の能力にせよ自分の力量にせよ、なにひとつ認知できない。」
「私が私自身にとって私の光ではないからだ。つまり、私の実態と私の諸様態とが闇にほかならないからであり、霊的諸存在の本性を表象する観念あるいは原型を私に披瀝することを、色々な理由で、神が賢明と見なさなかったためなのだ。」(「形而上学と宗教についての対話」、33ページ)
 私自身を感知することは、まあできなくはありません。痛みでもなんでもいいでしょう。しかし、私の本性を認識することはできない。私の諸様態は闇に過ぎない。それは、理性を通じた認知によって認識される、と、マルブランシュは言っているようにも思われます。ですから、われわれが神の元でのみ見る、というとき、神の元でのみしか見ることのできない最たるものがあるとしたら、それが人間自身なのです。
 もちろん、人間の罪にまみれた感官のために諸様態が闇になるのであって、完全に神の御許で見ることができたのなら、それは光の中に解消されるはずだ、という考え方もできます。しかし、たとえば「観念の本性について」の第七章第四節で描かれているように、心がその定義からして観念によってではなく感じによって知られるものであるとするなら、最終的にはこの闇が払われるときはない、しかもそれは心の本質からしてそうなのだ、ということになります。ここでも「・・・神は、われわれに物体(身体)を知らせるように、観念によって心を知らせることをしない」(286)と書いています。マルブランシュのなかで、ここだけは妙に、本人さえ、とまどいながら述べているようなこの雰囲気はとても印象的です。彼の主張はどこか保守反動っぽいイメージを持っていたのですが、ここにだけは、突然近代が顔を出すような印象さえあります。

 われわれの当初の着眼点は、マルブランシュを精神分析的な無意識の先駆と捉えることでした。つまり、心身二元論を調停、とは言わないでも媒ちするものとしての神か、あるいは無意識か、として。しかし、神と無意識には差があります。無意識の方は、症状という形が良く顕しているように、神様と違って、少なくとも意識の側からしてみればバグだらけの返答しかしてくれない。神様なら、その辺、バグはないはずです。そういって、このアナロジーにけちを付けることもできたはずでしょう。
 ところが、マルブランシュにとっても、この心の闇は解消できない問題です。だとするなら、やはり少なくとも心の側からしてみればバグとしか思えない反応を神様が送り返してくる可能性は、残されています。今のところ、この闇の問題はとりあえずなぞってみたというレベルの読解に過ぎませんが、もう一回り深い意味で、マルブランシュを無意識の先駆と考えてみる手がかりにはなるかもしれません。