おしゃべりな神様

 今日はちょっと、普段の読書ノート風というよりレビュー風にいってみましょう。見出しを付けるとしたら「あの電波系の大著、ついに翻訳なる!」というところでしょうか。そう、ジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙」がついに翻訳されちゃったという意外な事実。びっくりです。

 ついでに言うと、お値段は3360円。手持ちの原書は500p.ちかい大著ですので、買う前はまあ抄訳なのかなあ、とおもったのですが、なんと全訳。おかげで600p.を超える厚さになっていますが、これをこのお値段で売るなんて、紀伊国屋さん太っ腹です。もっとも、翻訳の柴田裕之さんという方のお仕事をリストを見ると(「ユーザーイリュージョン」ほかの翻訳を手がけていらっしゃるようですね)、あるいはある程度一般向けの需要も見込んでの値段付けなのかもしれません。柴田さん、工作舎からカラザースの「記憶術と書物」も出していらっしゃるようで、先の「ユーザーイリュージョン」と合わせて、このあたり、一貫した興味もお持ちなのかもしれません。
 ちなみに、その柴田さんの解説によると、この「神々の沈黙」、デネットが高く評価しているらしいのですね。ちょっと意外な感じもあります。

 さて、ではなんでこれが電波系の大著というかというと、いや、なにもいわゆる「電波系」、あるいはトンデモ本だと言いたい訳ではありません(むやみに壮大なので少なからずそういうところもありますが)。電波系、の元々の意味は、精神病圏の症状での言語幻覚や思考化声、思考奪取、影響体験などにおいて、いわゆる「電波」を受信した、電波に操作されている、という主張が患者さんからなされる点にあるわけですが、その意味において。わたくし、このブログでたまさか冗談で「一元論倶楽部」とでも題すべきシリーズネタを書いていますが、その系譜で言えば「電波一元論」というところでしょうか。

 とりあえず、ジェインズさんの略歴を記しておきましょう。1920-97、プリンストン大学心理学教授。ちなみにこの本は彼の唯一の著作であり、1978年の全米図書賞候補作だったそうです。というわけで、いちおう「きちんとしたひと」であることは最初にお知らせしておかねばなりません。個人的には、わたくしがこの本を知ったのは、マクルーハンが引用していたからなのですが、そういえばこれから見ていくように、この本、マクルーハン的な感じとの親近性もなくもありません。

 さてさて、それでは本の内容を。
 ジェインズさんの主張は明快で、まずこの広義の言語幻覚をすべての精神活動の基礎と捉えるのです。そして、それをどのように処理するのか、の形態によって文明を整理しよう、と。例えばホメーロスの作品分析から伺う限り、古代ギリシャなどでは、言語幻覚は幻覚ではなく「神に吹き込まれた」ものなのであって、けっして異常な現象ではない。しかし、文明の発展の中で、そうした処理法が不便なものになっていくとき、人はさまざまなテクノロジーの力も借りつつ、これを別様に解釈し、処理する方法を身につけていく。今なら、例えば「内面の声」というような感じでしょうね。幻覚ではなく、「自分の中にふっと浮かんだ考え」ということです。そして、それが他人のものだと感じられるようになったのなら、それは今や精神異常のカテゴリーに放り込まれることになります。

 この書物、原題は"The origin of consciousness in the breakdown of the bicameral mind"と題されています。ジェインズさんは、このような古代ギリシャ的解釈モデルをbicameral mindと呼んだのでした。見慣れない単語ですが、バイオケミカルではありません、二室からなる、という意味だそうです。つまり、われわれであればひとりの人間の意識のなかにあるとくくっている枠を、神様と私、という風に処理しているから、というのがジェインズさんの主張。私としては、現代人の心の方が二室からなっているのであって、ホメーロスの主人公たちは一室構造じゃん、神様は建物の外にいるじゃん、と思うのですが、まあこの辺は考え方の差。とりあえず、ジェインズさんの定義を紹介しておきましょう。申し訳ありませんが引用は原著(Julian Jaynes, The Origin of Counsciousness in The Breakdown of the Bicameral Mind, A Mariner Book, 2000)の方から。なにも訳に問題が、とかいうわけではなく、手持ちのノートを使った方が早かったからです。あしからず。


「イリアッドの人物たちは我々が持っているような主体性を持っていない。自分が世界に気を向けているということに気を向けていないし、内省を展開する場となるような内面の心的空間を持ってもいない。我々自身の主体的な意識的心と区別するために、我々はミケーネ人のメンタリティを二室の心bicameral mindと呼ぼう。」(75)
 そして、こうした主人公たちにとっての「神様」をこう語っています。

「この神と英雄の関係は、その創始者となったという意味でも、フロイトのいう自我と超自我の関係ないしはミードのいう自己一般化された多の関係性という関連項に類似していると。・・・神々は我々が今日では幻覚と呼んでいるものである。」(73-4)
 そう、わたくしはどちらかといえばこちらの思考になれていますので、「現代人の方が二室じゃん」と思ってしまうわけです。
 こうした考えが、それほど突飛とは言えない、とは言ってもいいと思います。まず第一に、こうしたかたちでの古代ギリシャ人の精神構造についての見解は、ジェインズさんも援用しているスネルやハヴロックの一連の研究があります。第二に、クレランボーの影響下にあるラカンにも見られるように、こうした精神病圏の言語の性格を人間の精神構造のより基礎的な(あるいは原始的な)ものとして考える、という発想自体も、それほど突飛ではありません。

 ついでに言うと、この本で面白いのは、「意識」というもののとらえ方でしょう。若干長めですが、二カ所から引用しましょう。


「意識は言語表現の言い換えられたものparaphrandsによって生み出されていったmetaphrand隠喩されたものである。しかし、意識の機能とは、それ自体がその帰路でもある。意識は恒常的かつ選択的に未来の行動、決定や部分的に思い出された過去などの未知のもの、我々がどのようなものか、あるいはどのようなものであり得るか、ということの対して作用する我々の過去で満たされた隠喩するものmetaphierになる。そして生成された意識の構造によって我々は世界を理解するのである。」(59)

「意識は何かのものや貯蔵庫、あるいは機能というよりは一つの操作であると我々は述べた。それはアナロジーに則って、そしてアナロジーの空間を、その空間を見、その空間の中を隠喩的に移動するアナロジーの「私」Iによって構築することで、操作を行う。あらゆる相互作用を操作し、関連する様相を抜粋し、隠喩的な空間の中にそれらを叙述し調整する。この空間の中でこそ、そういった諸々の意味がものであるかのように扱われうるのである。意識された心とは世界の空間的アナロジーであり、心の行為とは身体的行為のアナロジーである。意識とは客観的に観察しうるものにのみ操作を行う。ロック風の別な物言いをすれば、はじめの行動の中にあったもののアナロジーでないものは意識の中には何一つないのである。」(65/6)

 もっとも、面白いのはこのあたりまで。これ以降は、ジェインズさんはこの「二室からなる心」の衰退および変容の理由をなんとか実証的に裏付けたいと考えていたようなのですが、このあたりから話は若干壮大すぎる文明観になってしまう嫌いがあります。それだけならいいのですが、それを脳の生理学的構造によって基礎づけよう、ということになると、ちょっとどうなのかなあ、という感じ。ともあれ、より受け入れやすい文化的変遷から推察される変化の理由、に絞ってその主張をまとめると。

(1)書記の出現によって聴覚の作用が弱まったこと
(2)幻聴的制御のもともとの不安定さ
(3)歴史的転換点のもたらす混乱のなかで神が無力であったこと
(4)他者の中に差異を見いだすことで内在的原因を措定するようになった
(5)叙事詩からナレーションを学んだ
(6)嘘をつくことが生き残ることに有効だった
(7)自然淘汰

などがあげられています。



 このブログを読んでくださっている方ならおわかりのように、たとえばデリダの取り上げたパトチュカさんの本も「ギリシャ的秘儀」とその変遷、という構造を持っているという点でこの著作の提示する構造と似たところがないわけではありません。クレランボーに依拠するときのラカンにも、言語幻覚を基礎的現象として重視し、そしてそれを処理する操作として意識を考える、という点で同じ傾向が見られます。こうして、わたくしのなかでは、たまさかジェインズさんの大風呂敷を喜びまた笑いつつも、この著作を「一元論」の豊かな系譜に位置づけるにやぶさかではありません。翻訳によって、より広く知られるようになるのは、悪いことではないでしょう。できれば、細部の荒さというか壮大さというか微妙な電波さをあげつらったりあるいはそこを確実な論拠として擁護したりするのではなく、言語幻覚から意識、という構造変動仮説の持つ可能性を評価する方向で理解されれば、とも思うのですが。

 それにしても、紀伊国屋さん、太っ腹だなあ。今時この厚さで3200円(税抜き)はありませんよねえ。



 そういえばNACSIS Webcatでこの本を検索すると、
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA71098370
 が引っかかります。非売品で、北村和夫さんという方が訳されているのですね。柴田さんの後書きによると駒沢の非常勤講師さんでもいらっしゃり、その方から連絡を受けて、ということも、翻訳のきっかけとしてあったそうです。二つの訳文のあいだの関係はどんな感じなのか、ちょっと面白いところです。