指輪をよこせ

rothko2008-05-06

借りるだけだ、ってそれはボロミア。

 まあ、毎回芸のない同じ様な出だしなのはともかくとして、右っかわにあるのはラカンのボロメオの環。

  1. この図式は三つの輪から構成される:現実界R、象徴界S、想像界I
  2. 三つの輪の交点は、それぞれ象徴界想像界に意味が、象徴界現実界にファルス的享楽が、そして想像界現実界大文字の他者の享楽が、また三つがすべて重なる交点には対象aがくるくる構造になっている。
  3. 記号はそれぞれ、JAが農協を、じゃなくて《他者》の享楽を、JΦがファルス的享楽を、Sensは意味を、aは対象aを表す。


 うん、ここまでは事典的な説明ですね。

 さて、前回までご紹介した上野論文にもあるように、最初にインストールされる《他者》、すなわちS1はそれ自体は言語の世界から消えることになります。抜け落ちるといってもいい(わたしのとうはつのはなしではない)。その後に、S2と呼ばれる通常のシニフィアンの連鎖、あるいは知のシニフィアンと呼ばれるシニフィアンの連鎖が成立し、それらS2のお仕事といえば、必然的に、S2の体系によってS1という空虚を取り巻きつつ、それについての駄弁を続ける、いわば空話の世界となる、というものであることになります。

 しかし、ここで誤解があってはいけない。このS1はゼロ記号としてのファルスではない、ということです。ファルスは-1を象徴化するものの位置におかれている、すなわち欠如のシニフィアンの位置に置かれているのですから。上野先生はセミネール11巻とエクリの「欲望の弁証法」に議論を絞ってラカンを援用する、とされていますが、この範囲でもそれははっきりしています。


 で、それがなに?って気がしますね。わたしもします。


 でも、それが持ちうる広がりというのもないわけではなく、ただのラカニアンお得意の神学論争じゃないかもしれなく、それを説明するにはボロメオの環の話も絡んでくる(ボロメオの環だけに)のではないかしらん、というのが、今回のエントリのおおよその流れでございますが、いつもに輪を掛けて(ボロメオの環だけに)ぐっちゃぐちゃな話になっていますので、その辺はご容赦を。



 とはいえ、欠如ってゼロじゃないの、という意見もありましょうから、まずは搦め手からの一手として、S(A/)をマナとすることを妨げるものがあるのだ、とラカンが論じているところを見ましょう。マナはご存じのようにゼロ記号の親玉。ラカンは、「レヴィ・ストロースは間違いなく、モースにコメントしながら、そこに象徴ゼロの効果を再認しようと望んでいた。しかし我々の問題に関して問題となっているように思われるのは、むしろ象徴ゼロのシニフィアンの欠如である」といい、そこで虚数iという概念を持ち出します。(Ecrtis, 821)ここでのラカンの議論は、かなり屈折していますが、ここは強引に整理してしまいましょう。

「この享楽、その欠損は《他者》を非-一貫性なものにしてしまう。それは私のものだろうか。経験は普通それが私に禁じられていることを立証しているが、それは・・・もしそれが存在したならの話だが、《他者》の過ちfauteのせいである、といおう。《他者》は存在しない。」(Ecrtis, 820)

 つまり、この斜線を引かれた《他者》は、享楽の侵犯によって非存在のものとなります。非存在は-1となり、ファルスはそれを象徴するものとなる。え?ちょっと待って、《他者》の享楽と《他者》の欠如、そして-1ってはなしまでは聞いたけど、それがファルスになるとは聞いてないぞ?うん?いきなり話が飛んだ?という気もしますから、ではまずたとえ話からゆっくり進めていきましょう。


 わたくしの友人の女の子は、こんな幻想を聞かせてくれたことがあります。パパとママはとっても仲良しだったんだけど、わたしが生まれてパパがママよりわたしのことを好きになったから、世界はおかしくなって、わたしはママの視線が怖かった。ここで、《他者》たる父、ないし溯及的にその完全性が幻想された理想の一対としての父母は、娘を享楽する父、その過ちによって破損されます。そのことによって、《他者》そのものが存在しなくなる。そしてまた、彼女も同時に、この世界に入った亀裂そのものとしてのみ、存在を許されることになります。だからこそ、そのとき、わたし、は次のような場所に生まれ落ちるのです。

”私”Jeとは何か。
私はいま、こういう罵声の聞こえる場にいる。”宇宙は非存在という純粋さの中にある一つの欠損である。”
そしてそれは所以なきことではない。というのも、この場所を保とうとするが故に、この場所は存在そのものを苦しめているからである。この場所は享楽と呼ばれる。そして宇宙を空虚にしてしまうのはこの欠損なのである。
(Ecrtis, 819)


 つまり、ここではわたしは、享楽の侵入によって欠損した場において、その欠損そのものとして誕生しています。そしてまた、このとき、《他者》においても何かが欠損しています。すなわち、父と母の対として構成された宇宙の完全性もまた欠損する。両方に欠損がある。しかし、その欠損の交点にあって、この《他者》の享楽を表示するのが、ファルスの役割。そしてまた、ファルスも何かの欠損を、つまり、この不在としての《他者》の享楽すなわち-1を表すものとされています。つまり、この《他者》の享楽もまた、非存在という純粋さの中にある一つの欠損、として、つまり、-1として位置づけられており、ファルスはそれを象徴するものとして必要とされたのです。
 

「かくして勃起性の器官は享楽の場を象徴することとなる。だが、それ自身として象徴するというわけでも、そのイマージュとして象徴するというわけでもない。欲望されたイマージュに欠けた部分として象徴するのである。それゆえにこれは、享楽の持つ上述の意味作用、すなわち√-1と比べうるのであり、この勃起性の器官は、言表内容という共同作因を通じて、失われたシニフィアンすなわち-1という機能へと享楽を修復する。」(Ecrits, 822)

 そんなこんなで、ラカンは論理操作の都合上、虚数を必要としました。「二回繰り返して否定の操作になるような論理操作が存在しないのと同様に、二回繰り返すとNOTゲートになるような古典的回路も、存在しないのである。・・・NOTの平方根ゲートは、虚数と呼ばれ、"i"という記号で略される数学的概念である、「マイナス一の平方根」に相当する。」(ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー「量子が変える情報の宇宙」(水谷淳訳、日経BP社、2006、p.257)ん?そんな一般書から援用していいのかこのトーシロが!といわれると一言もないのですが、まあ、じっさいこの解説の是非を明確に判断する能力は、わたくしにはありません。でもいまはそれにのっかりましょう。

 ここで問題なのは、じゃあそうすると、ファルスは一方で、享楽という-1を象徴する場のようであり、他方で√-1と比べられているようでもあるが、それはどうするの?という疑問がわいてきます。どうしましょう?

 上述の引用にもあったように、ファルスはそもそも、イマージュのなかの不在物、として登場しました。これは、もともとがカール・アーブラハムの症例、すなわち夢の中でファルスが不在であったという症例に由来しています。「対象の部分愛、睾丸の無い対象への愛の基礎は、中心的、範例的機能としてのファルスを想像的に際立たせることにあります。」(seminaire 8, p. 441)

ちなみに、のちのラカンはこの話をユーモラスにこんな風に語ることになります。

「オーブリー夫人がもってきてくださった、私が鏡像段階と呼んだものの描写と題されたフィルムは、私にとってずいぶんな驚きでした。・・・鏡の前の子供が、・・・おそらくはそのファルスあるいはその欠如の前で手を行き来させ、そして鏡の像の中からその部分を完全に消してしまっていました。この消去は私には早熟さに関係するものであると思われました。そして、これは後年羞恥心と呼ばれるものの予告となるのであろうと。ファルスは従って、このように消去される限りでとりわけ現実的なものとなるのです。」(1975.3.11)

 そんなわけで、この意味でのファルスはながらく-φなどと呼ばれていたわけですが、こうするとなにやらマイナスがついてるような気がしてきますね。セミネール11巻の段階でも、ここまでは立証できます。とはいえ、それで終わっていたのではべつに何の意味もない些末な議論になってしまいます。ここで大事なのは、あくまでもそうした他者のイマージュのなかの欠如、そしてわたしじしんのイマージュのなかの欠如、そのふたつの欠如の重なり合うところに、《他者》の享楽とも呼ぶべきものが再建されており、ファルスはそれを象徴するものへと位置づけ直された、という点です。欠如のシニフィアンから享楽のシニフィアンヘと、ファルスの立場が変わっているのです。そのことで、前者の欠如は、わたしの欠如と《他者》の欠如の二つの欠如であり、そのふたつの欠如の交わりから、《他者》の享楽という-1が再構成される、修復される、ということになります。そのため、否定の積から否定を作り出すために、ラカン虚数という概念を必要としました。*1


 それはともかく、わかった、なんか必死なみたいだから、ファルスが-1でいいよ、でもそれって何の意味があるの?と聞きたい方もいることでしょう。じっさい、それだけではそこに何の差異があるのか、そしてその差異の意味がなんであるかは全くわからず、ただのスコラ的議論にすぎないことになるからです。まことにごもっとも。
 ここまで見てもらったところでも、わかって頂ける方にはわかって頂けたかもしれませんが、-1をとることで、問題はゼロ記号的なファルスの意味作用による症状の読解、すなわち、意味としての症状という位置づけから、享楽という、ある意味では精神分析唯一の実体とも言うべきものへシフトチェンジする、ということが、ここでの主要な論点です。つまるところ、意味から享楽へ。その辺を、ボロメオの輪の説明をかねて行っておけば、まあ煩瑣な違いを言挙げする意味もあろうかなあと。
 もっとぶっちゃけ簡単にしてしまうと、ゼロ記号的なファルス、という発想は、言語と身体という、いってみれば構成するものと構成されるものとがそこにあり、その両者の間には過剰や過小があるために一致を見ず、その不一致を性的なものという名で我々は呼んでおり、しかるにファルスはこの不一致の(ということは差異の)シニフィアンとして、この純粋な差異を代表すると同時に、残りの性的な含意を身体へ安定化させる、というふうな図式に、わりとすぽっとハマってしまう、ということです。S1によるS2群の安定化、事後的な意味付与、ポワン・ド・キャピトン。べつにそれが間違っているわけではないのですが、すくなくとも『欲望の弁証法』の時点でも、それに収まりきらない変化ははっきりと現れている、かな、と。

 しかし、問題はすべての治療がそうであるように、この図式からは必ず逃れる不均衡があり、その不均衡を捉えるためにラカンは享楽と対象aという概念を引っ張ってきたのであり、そしてまた、そのことによって言語の位置づけも、身体と言語という二元論から、言語そのものが自然のなかにおいて過剰なものとして(ララングという名を背負わされて)登場してくることになります。そしてその焦点は、ゼロ記号としてのファルスがある種の秩序とカオスの弁証法のように、つまり一身に聖性と穢れを背負わされ首をはねられる王(浅田彰風に)という、それ自体は(一見動的に見えて)極めて静的なモデルとしての治療論が今ひとつ役に立たず、よりアドホックな形でこの不均衡を安定させる論理が必要になった、ということでもあります。理屈の構造の差異は微妙ですが、登場人物の性格は大きく変わり、ファルスはゼロ記号から享楽の記号へと変化することになり、そのことによって、これは忘れてはならないことですが、また言語そのものの位置も変わってくる、そんな風にいってもいいでしょう。

「自然にとっては、自然の外部に存するその純粋さの条件とは人間の言語活動にほかなりません」(ベンヤミン)


 では、次回はその帰結を、ボロメアの環を通じて簡単にまとめてみましょう。

*1:というわけで、巷間やかまし虚数チンポなるものも、そして「われらが勃起性の器官が√-1と等価だなとどいわれると心穏やかではいられない」という感想も、結構な誤読とはいわないでも早合点の産物ではなかろうかしらん、という気もしてきます。ごく簡単にそれは、ふたつの否定の積から、さらに否定を作り出す操作は、上述の引用にもあったように、虚数を用いて説明される、ということを述べていたに過ぎないのでは無かろうか、という気がしないでもないわけですが、まあわたくしの読解能力がおかしいという可能性もあるので、ここはとりあえず、こういう仮説もありますぜ、というくらいの立場にとどめておきましょう。