動的不均衡?

 さて、前回は上野修「意味と出来事と永遠と−−−ドゥルーズ『意味の論理学』から」「ドゥルーズ/ガタリの現在」小泉義之、鈴木泉、檜垣立哉編、平凡社、2008、p. 20-40)から、ドゥルーズの「アイオーン」について、まとめをしたのでした。いちおう、前回の最後までで、それが神的な永遠の時の可能態から現実態への移行というものではない、本質的な「場」の空虚ともいうべきものが含まれるがゆえに、事後性の作動する空間であり、それゆえに不確定な「特異性」の支配する場なのだ、ということを見てきました。

 ではまず、前回の復習がてら、引用しましょう。

「非物体的な出来事はそれを表現する命題の中に、「意味」として、すなわち「表現されるもの」として存続する。」(26)
「出来事はしたがって二重の仕方で存在する。事物においてはクロノスに従って生じる非物体的な属性として。そして言語においては/命題の中で表現される意味として。暗殺の出来事は、精確には、事物と言語が混じり合わないで接する境界に位置する。おそらく出来事の時間、アイオーンは、クロノスの刻む時間とともに維持されるこの境界の時間なのである。」(26/27)

 つまり、ストア派においては、出来事はつねに意味あるいは表現されるものでしかありません。そのために、事物のレベルでは、それは通常の時系列の枠組みに従う、ひとつの属性として登場してきます。他方で、言語の中では命題で表現される意味として。念のため付け加えると、「ストア派によれば、命題は生成の出来事を表現する。樹は「緑である」ではなくて、「緑であることになってゆく」(LS 15/上24)なんていう話は、この前もちょこっとしましたね。ペガサスる、とか。*1
 こうして、出来事は事態の形をとる実現ではない、ということになります。現実化ではない、といっていいのでしょうか。そうではなく、それは事態の上に到来する非物体的な属性であるとされます。そして、命題とは、アイオーン、つまりいまだ途上で未決に留まるこの非物体的な属性にたいして、それが機能すべき場を与えるものです。ドゥルーズはそれを意味の次元と呼びました。そしてドゥルーズによれば、そうした意味の次元を出来事と不可分のものとして発見したのがストア派なのだ、と上野先生は考察します。たとえば、こうです。「意味とは命題にあって表現されているもの、事物の表面の非物体的なもの、還元不可能で複雑な存在者、命題の中に存続して立ち去ろうとしない純粋な出来事である(LS30/上46)。」(28)つまり、命題は出来事を確定的に記述するのでもなく、出来事を表現するexprimerのであり、出来事はストア派のレクトン、すなわち、「意義」つまり具体的な事態を指し示すこととは、どこにも似ていない、というかぎりでの「意味」のことなのです。「非物体的な未決の出来事は、命題が表現する「意味」として、潜在的な過去と未来の全体と一緒に考えなければならない。」(28)

 では、こうした「意味」の「場所」はなぜ生成するのか。それを上野先生はこう説明します。アイオーンの時間というのは、象徴界の一挙性に事態の進展が追いつかないところに成立するのだと。つまり、象徴界はつねに一挙に与えられますが、それによって指示されるべき世界はそれとは常に不均衡です。そのためアイオーンは常に意味過剰な潜在的全体としての今であり続けるのだ、と。
 簡単にいうと、それは象徴界がなにかに取り憑かれている(何かデリダチックな言いぐさですがその含意はありません)ということにほかなりません。それはルイス・キャロルの「秘教的な語」のように「それ自身の意味を語る異常な語」である、「無-意味」(le non-sens)以外の何ものでもありえないものであり、にもかかわらず、それは命題の意味とつねにともに居合わせる「共現前」(copresence)の関係にあるのです。上野先生は、タルスキ以来の真理文を分析しつつ、それが真理述語、すべての真理文に現れるが自身は内包的な意義を持たないそれ、の条件を満たすとされています(30)が、この点は若干留保しましょう。ともあれ、この、余分な厄介者、構造の観点からすれば意味は常に余分であるとドゥルーズは言います。

 そして、それがアイオーンです。つまり、この「いま」はセリーを循環する奇妙な要素そのものとなり、時間の進展につれて、意味の贈与を遂行するのです。(31)「それはいつも何かが不足している物理的事態の実現を機/会とし、打ち出の小槌のように特異性すなわち過剰な意味をその事態のための真理、非物体的属性として振り出す。そうやって振り出されたのが意味としての出来事である。「運まかせの点」は出来事の「準−原因」(quasi-cause)だとドゥルーズが言うのはそのためにほかならない。こう考えれば、アイオーンの大文字の出来事は意味の出来事とぴったり重なる。というか、到来するものと語られるものは同一物である。」(31/32)そして、これが出来事の到来する場所、という当初の疑問に対する解決となります。ドゥルーズはそれを、超越論的な場、あるいは形而上学的表面と呼ぶのです。長いですが引用しましょう。

「こうしてドゥルーズは出来事がどこにあるのかを決定することができる。出来事があるとすれば、それは事物および構造としての言語がその不均衡ゆえに差異化されるところ、アイオーンの「いま」が両者をたえず分岐させながら関係づけている両者の境目にあると言うほかない。出来事は、「運まかせの点」によって意味として振り出され、その境界に取り憑いて過剰な意味を絶えず伝達し合う。そうやって同じ出来事が境界の命題の側では「表現されているもの」として、事物の側では「非物体的な属性」として存続する。ドゥルーズはこの境界面を、フィジカルなものの後に来るという意味を込めながら「メタフィジカル(形而上学的)な表面」(une surface metaphysique)と呼んでいる。」(32)

 これは、たんに出来事の生成と到来の場、あるいは時間論的分析といった、それこそ形而上学的な問題に留まらず、ある種の倫理学へと波及していくことになります。(そしておそらくその為にラカンという補助線は必要だったのでしょうが)
 それを、上野先生はこう紹介します。ドゥルーズによれば、ストア派の賢者は、あらゆる出来事の準-原因すなわちアイオーンのいまに自己同一化し、生身の自分に起こることにふさわしいものとなることを目指したというのです。重ね合わせるというよりは、出来事の当事者、関与者、acteurになる、それを演じるrepresenterとドゥルーズは言います。登場人物は過去を想起し、未来を予見して怖れるが、それを演じる俳優は、全過去と未来を一点に凝縮したアイオーンのいまに同一化し、事態をアイオーンの運まかせの出来事として演じるのだと。ここで、まさに起ころうとしている出来事が主体自身の真理としての隠喩となるように、無限の過去と無限の未来が一つになろうとするこの点に身を置くことによって、事態、というクロノス的な時空間を越えて飛翔する、と。(35)上野先生は、ドゥルーズがストアの運命愛に見出したものを、運命愛と反-実現(同伴-実現)contre-effectuation)(35)ということばで説明します。まとめがてら、引用しましょう。

「それはアイオーンの「いま」が無限の未来と無限の過去に瞬時に伸びてゆき、大文字の出来事がこの瞬間にわれわれ自身の出来事になってしまうような非人称の経験である。そのとき出来事はもはや個人的な出来事でも社会的な出来事でもなくなる。一切が言語によってわれわれの唯一無比の出来事へ二重化されうる。」(36)

 そう、ここで上野先生は、これがある種精神分析的な治療の集結と重なるものとして意識してこの文章をお書きになったようにも思われます。それがおおむね正鵠を射ていることは確かですが、訓詁学的にこやかましいことをいえばファルスという語の扱いについて、そしてもうちょっとまともに、意味のある方向としては、いわゆる「症状への同一化」という問題に関しては、わずかにずれるところもあるかもしれない。そのあたりは、またいずれゆっくり考えなければいけません。難しいけど。

*1:そうそう、LSは原著の、上下+数字は河出文庫版の頁数です。