アイオーン

 「ほざけ、人の子が」ってそれはアリオン

 などとお年寄りにしかわからないネタはさておくとして、上野修「意味と出来事と永遠と−−−ドゥルーズ『意味の論理学』から」「ドゥルーズ/ガタリの現在」小泉義之、鈴木泉、檜垣立哉編、平凡社、2008、p. 20-40)、ちょいちょいとお名前を出していましたが、そのなかからドゥルーズの「アイオーン」について、忘れないうちにまとめてしまいましょう。

 以前にも申し上げましたように、上野先生の論考はラカンを補助線に引いており、そのラカン解釈はきわめて妥当なものですが、今回は扱いません。別段内容に問題が、不満がというわけではありません。むしろ、もう『意味の論理学』をラカン派的な見方から話す、というのはしなくていいかな、と思える出来です。もし付け加えるとしたらおそらく軽微な修正がちょこっとだけと、そしてむしろ大部を占めるのはその後のラカン理論の展開の中でそれをどう位置づけるか、といったポジティブな方向になるかとは思うのですが、その広がりは相当大がかりなものになる上に、一部は博士論文で、また一部は先日のちょっとしたミニシンポでの発表で扱ったということもありますので*1、今回は「アイオーン」という概念を明らかにするだけにとどめておきましょう。

 さて、アイオーン、なんでしょう?
 精神分析プロパーの人だと、なんかユングが書いてたよね?という方向で思い出されるかと思いますが、それは正解。そしてそのことは、かれの個体化の理論とあわせ、意外にもこうした、いってみれば存在の一義性、的な文脈をかれがどれだけバックグラウンドとして持っていたかを端的に物語るものでもありますが、逆に言えばそのリスクを物語るものでもあります。ドゥルーズがそれを免れているのか、それはまた、しかしながら、べつに検討すべき問題でしょう。

 簡単にいえば、アイオーンはギリシャ語では永遠という意味をもちます。


 ほうほう、永遠ね。あれですか、神様がものを見る時には現在過去未来すべてをたなごころの上にあるように見るという、あの永遠ですか?というツッコミもありましょうが、そっちの、いわば無時間的な永遠ではありません。上野先生の言葉を借りれば「アイオーンの「いま」は未来と過去を一望する高みをもたず、一切が不確定な途上にいわばへばりついた時間」(24)なのです。つまり、「むしろ「なってゆく」という、それ自身が唯一無比の出来事であるような時間としての、永遠である。そのアイオーンの「いま」においてすべての出来事が起こる。すべての出来事には「永遠真理」があるとさえドゥルーズは言う。」(24)

 さて、前半はいいが、後半はなんのことやらわからなくなってきます。
 そういうときには、やはり原則に立ち戻り、何でそんな話を持ちださねばならんか?と問い直してみることにしましょう。上野先生によれば、ドゥルーズが問題として考えていたのは、時間論ではとっても古典的なあの問題です。そう、現在ってなに?って奴ですね。考えてみれば、現在ってのは、もう過去になってしまったものと、まだ未来なものの中で微妙に揺らいでる点であって、じゃあどこが現在?と聞かれると誰もそれを指し示すことは出来ない、というのは、もう本当に古典的な哲学的時間論の設定です。それを上野先生はこう表現されています。

「出来事の到来は、これから限りなく起ころうとしている未来とすでに限りなく起こってしまっている過去とが無限に/ひとつになろうとする極限に位置する。一瞬の出来事だから捉えられないと言っているのではない。・・・われわれは出来事の到来に対していつも早すぎるか遅すぎるかでしかない。これが出来事の捉えがたさである。」(21/22)

 なるほど、或る程度この問題をご存じの方も、そうでない方もまた、それなりにイメージできる問題ではあろうかと思います。でも、こんな問いはそもそも何かをポジティブに措定するための前提として立てるのでないかぎり、ただのパラドックス好みの物好きな議論にしかなりません。しかし、そこはドゥルーズ、この問いは、このアイオーンという時間意識の導入のためにあります。ちょっと長いですが、上野先生から引用しましょう。

「アイオーンの「いま」は過ぎ去らない。アイオーンの「いま」はまさにそれ自身がたえず起こっている何かであり、すべての出来事はこの中で、そしてそれとともに、起こる。・・・起こる「いま」は、いままさに起こらんとすることと、いま起こったばかりのことの両方を同時に含んでいる。・・・こんなふうにアイオーンの「いま」は限りなく未来と過去の両方向に、同時に、かつ切れ目なしに、一気に伸びてゆく「いま」である。」(23)
「そうすると、アイオーンの「いま」はおよそ考えうる極小時間よりも短いと同時に、およそ考えうる極大時間よりもさらに長い時間を潜在的に含み、そうやって無限の過去と無限の未来をその「瞬間」(l'instant)にいわば不可分に凝縮している「いま」だということになる。」(23)

 ここにはきわめてややこしくねじれた事態が生じています。最初に、われわれはアイオーンはギリシャ語で永遠だといいました。でも、ここではそのアイオーンは、ある意味では『瞬間』という、あるいは現在の一瞬という極小の点になっています。それは、現在という一瞬を指し示す時に、そこにはこれからの未来と、これまでの過去が同時に含まれているがゆえに、そうなるのだ、とドゥルーズは考えているようです。
 以前の議論で、ドゥルーズが論じた「時間イメージ」は、まちがいなくこちらの系譜にあるものです。そして、結晶的な時間の延び広がりがそうであるように、アイオーンのいまも未来と過去の両方向に広がっていく。

「アイオーンの「いま」は、過去と未来の全体が何一つ確定しないままに凝縮された途上の現在として考えられなければならない。」(24)


 では、この過去の未来の凝縮されたもの、それを何か実在的なものとして捉えて、現在とはその可能態が現実態に変化したものと考えていいのか。単純に考えると、それが一番手っ取り早い。可能的なものとしてある神の永遠の時間が、この一瞬の時間に時間的存在として現実化する。に<永遠的な仕方で出生して時間のうちに受肉した御言葉>と、ボナヴェントゥラならいうでしょう。あるいは、ヨハネス・エリウゲナ風に、質料と形相において時間と場所において生成を通して認識されるものは人間の習慣で存在するといわれ、それらの本性の内奥に保たれていて、偶有において現れていないものは存在しないといわれる、というかたちの時間だと考えていいのか。そして、ベルクソンの「純粋過去」に依拠した時のドゥルーズは、なにやらそうした方向性を示唆していたようにも思えます。では、上野先生の中では、それにどう答えられているのでしょうか。

 まず、とっかかりとなるのは、ドゥルーズの「運まかせの点le point aleatoire」という概念です。これは、潜在的なすべての可能性を一挙に含んでいて、この次どうなるかは骰子を振ってみるまでわからない、という意味だとして説明されています。「出来事はすべて不確定のままアイオーンの時間の中で潜在的なものとして存続する。それが「永遠」、アイオーンの時間である。」(25)しかし、このアイオーンの時間、すべてを潜在的に含むアイオーンの時間は、実在論的な意味で実在するのか、だとすると、それは神の時間とどう違うのか、という問いは残ります。

 ついで、端的な大文字の出来事Eventum tantumという概念が紹介されます。これは、それ自身が「なってゆく」という生成の出来事であり、すべての出来事はそれとともに起こり更新されるのです。つまり、ここでイメージされているのはラカンの事後性概念だ、といっても、文脈から見てもべつに牽強付会とは怒られないでしょう。そして、この意味で、アイオーンはすべての出来事の出来事である、とも説明さています。つまり、アイオーンは、いってみればそれ自体が時間の場所(コーラという言い方をしたい誘惑に駆られますが)であり、同時にそれ自体が出来事である、という、ねじれた位置に置かれるものになるのです。出来事と出来事の場所を両方兼ねている。マルクス動物園で飼われているというあの有名な「動物」ですね。
 そのために、アイオーンは、それ自身一つの出来事であるが、出来事のうちに数え入れると一つ余計となり、入れないと一つ足らなくなるという意味で自己同一性を欠いた「同じもの」である、と上野先生は続けます。興味深いことに、上野先生の着眼では、これはラカンのAutreと同じ構造を持つとされています(25)。とりあえずこれには深入りしませんが、こうした前提をもって、上野先生は、出来事は個体でも事態の実現でもない、というかたちでここまでの問いに答えられているように思います。

 そして、それをドゥルーズは特異性と呼んだのだ、と、議論は展開します。どゆこと?説明を見ましょう。
 すべての出来事は決定不能の大文字の出来事の中で、そしてそれとともに、起こったのだから、出来事は既に起こった出来事でさえ未確定であり、事物のように確定的に実現して過ぎ去っていくことはできず、つねに「観念的=理念的」(ideal)です。なにが起こったかはすべてが起こってからでないとわからず、そのすべては永遠にやってこない。したがって出来事は確定記述による通常の概念や規則で処理できない、ある種の構造の中でのみ措定可能な「特異性」singularitesと呼ばれるべきものだ(26)と、いうのが上野先生の説明です。こうして、この特異性をもって、一応不確定なアイオーンの時は説明されたことになります。

「物体的事物とその状態はクロノスの現在にいわばフルボディで確定的に存在する。・・・ところが出来事は現在をかわす。出来事はしたがって事物のある状態の実現ではなく、むしろ、それに伴って生じるある種の「効果」(effet)として考えねばならない。・・・ストア派の「非物体的なものの理論」に従うなら、出来事は事物の状態の上に「非物体的なもの」(l'incorporel)としてスーパービーン(survenir)し、非物体的で観念的な「属性」としてその事物の状態に帰されるのである。」(26)

 なんでスーパービーンじゃないといけないんだろう、どっかの文脈では術語として使われてるってことかしら、でも知らないぞ、と当方の無知をさらけ出しつつ、次回は、この引用を手がかりに、ここからがドゥルーズの、そしてそれを解説する上野先生の本領発揮ともいうべき、アクロバティックな展開をフォローしていくことにしましょう。


 それにしても、youtubeってほんとなんでもあるのね。。。すっごい時代を感じるけど。

http://youtube.com/watch?v=LjfCtYuTouc

*1:しかしまあわれながらなんかえらそうなものいいだ