不信人物


 前回は、ラカンのcroire aとy croireの違いについてのご高説をうんうん言いながらひねくり回して、とりあえず関係しそうな箇所を拾っていったのでした。クワクワクワクワいっててまるでアヒルのようです。

 女への愛と狂気が輻輳するこの論述、解きほぐしていくのはちょいと面倒ですが、少なくとも「そないやる気出さなあかんのか」と世の(一部の)男性を微妙に暗然とさせたことは確かなのではないかなあ、ということは想像に難くありません。とはいえ、世の中に良くある誤解、つまり、ラカンは晩年女はファルスの法に全面服従するわけはないと言った、初期にはファルスの法の欠落が父の名の排除で精神病だと言ってたみたいだし、だから両方足すと、つまりラカンは晩年に女は精神病だと言ってたことになる、というあのフェミニズム的誤解は避けられるのではないかなあ、と思います。むしろ狂ってるのは男じゃないかしらん。いや、まあ、それも同じくらい軽率そうな気もするので、判断は保留しましょう。

 しかし、とりあえずまず御大は、ある一人の女性を信じるところから愛は始まるとのたまわっています。まあ、そらそうでしょう。しかしまあ、それはどういうことか、女性一般としてのla femmeを信じるところまで話はいってしまうと。あるいは、一人の女性を信じることから始まって女性そのものの存在に信を置くところまで。それは、精神病の主体にとっての声との関係に似ているとラカンは考えているようです。そこでも同じように、声に信を置くだけではなく、声を信じている、と。
 じゃあ、愛じゃなかったり精神病じゃなかったりする、普通の場合の信用とはどうなるんだろう、という疑問は当然出てくるのですが、この講義はこの時点で既に100分超過、おしまくってる講義でしたので話はこの辺でおしまい。このあとの講義でも、類似の話も出てきません(たぶん)。
 しかし、さしあたり、可能性は3つ考えられます。 ≪y≫ croireと≪le≫ croireの二つのうち、後者から前者へビルドアップしていく方式をラカンは精神病的狂気と呼んでいたようでした。じゃあ、残る可能性として、どちらもまったく信じない、というのは、ちょっとなさそうです。ついで、穏健中道派として、≪le≫ croireだけはするけど、 ≪y≫ croireまでは至らない、とする可能性もあります。これはありかも。更に順番をひっくり返して、≪y≫ croireから≪le≫ croireへのトップダウン方式とする、これも一つ可能性として残るでしょう。最後に、≪y≫ croireはするけど ≪le≫ croireはしない、というトップのみという考え方もありえます。

 とはいえ、この手の図式ばっかりが先行して、現実をどれに当てはめるか悩む、などというのはけっこうというか心底バカバカしい気もするので、もしかしたら一部のラカニアンはすでに信の一文字を見て待ちかまえているかもしれないもう一つのネタ、不信、というほうから切り口を入れてみましょう。

 不信。Unglauben。元ネタは、ラカンせんせいはセミネール第7巻のなかでフロイトの『科学的心理学草稿』と書いていますが、フリース宛書簡の草稿Kの「パラノイア」の節でしょう先生、という気もするのだがどうでしょう、ということで有名な箇所でもあります。この草稿は、一次的体験によってその後の症状の形成を説明する、というご本人曰く「クリスマスのおとぎ話」によって構成されていますが、パラノイアに関しては「形成される一次的症状は不信感(他の人びとに対する過敏さ)」とされています。あるいは隣人への信頼の差し控えと。


「われわれの見解では、不信に関して言えばそこには正確にモノla Choseとの関係において理解されるディスク−ルの位置づけがあります。つまり、モノはVerwerfung排除という言葉の正確な意味で拒絶されています。」(seminaire 7, p.157)

 まあ、こういうはなし、つまり原初的な《他者》に対する不信とか、モノの排除、という言葉はラカンの同社の間にはよく知られた話ですが、個人的には、フロイトの草稿Kでは問題は「一次的な非難」への不信とされていることも忘れるべきではないと思います。この症状において、声の意義や身振りの意義、話の口調や当てこすりが重要になるのは、この「非難に対する信用の拒否」とそれにともなう「投影の機制」により、話の内容から抑圧された記憶への直接的な連関が意識可能でなくなるからだ、と。この点で、ラカンがそれをディスクールの位置づけと連関させた意図は明らかになりますし、また後でみるビオンのfaithという概念との関連性も見えてきます。ちなみに、草稿K、手っ取り早いところでは「フロイト フリースへの手紙」の165-172頁をどうぞ。

 まあそれはさておき、その他者との関係性をより汎用的に見ると


「いかな基準で、そしてどこまで私は他者のことを当てに出来るか。他者の行動の中に信頼すべき何かはあるのか。彼が既に約束してくれたものに対して、どんな結果を期待できるのか。このゆえにこそ、子供と他者の関係のもっとも原初的な諸葛藤の一つが、彼の歴史の原則の設定と基盤そのものの周りを経巡っているものとなるのです。そしてまた、これが彼の運命、彼がその行動を無意識的にどう調整するかを命じるものの、もっとも深いところで反復されることになります。」(1959.5.20)

 ということになるでしょう。このあたり、《他者》との最初の関係をもとに各症状の構造化を(自称おとぎばなしとして)論じたフロイトの影響が如実に表れている感じですね。

 さて、そういう感じでだいたいのこの不信の意味をご理解頂いた上で、次の箇所を見ましょう。


「不信とは、「信を置かないということ」(le n'y pas croire)ではありません。信仰の項目の一つ、つまり主体の分割が示される一項が欠如している、ということです。」 (seminaire 11, p.216)

 もちろん、この話をしているのは枕に振ったcroireのはなしのうんとまえのことですから、この時点でラカンがcroireの使い方を厳密に考えてこう言ったという保証はありません。とはいえ、どうも示唆的なのは、この直前の引用箇所とも合わせて、あるひとりの他者への信が成り立っていなければ、そもそも他者一般としての《他者》がなりたたないような機制がある、と述べているように思われる点です。

 パラノイア、とは、まあいい言葉がちょうどいいところに帰ってきてくれたものだ、という気もします。最初にわたくしは「相手が孤立的な状況にあるときは」というネタからこの文章をすすめてきたのですが、こういうときに、個々の言葉をあげつらうことで、だいたい確実に先方のパラノイア化は進みます。

 さて、こう書いてくると、ちょっとまて、お前はさっきまで信の話をしていたし、そこで女への愛やら精神病やらの話も出てきたはずなのに、今度は不信の話になってるぞ、と、まさに不審の念に不信感まで抱かれそうな感じですが、まあそれにはそれで理由があります。

 では、次回はその辺の話をちょこっとしてまとめに入りましょう。