信じるということ

 というと、なにやらジジェク先生に似たような名前の本があったような気がしますが、今回は別にレーニンだったりパウロだったりと最近流行の話題とは関係ございません。というか、あの辺の話題はマルクス主義にもキリスト教にも知識見識のない我が身が悲しくなってくるので、半べそかぎながら勉強する羽目になってこまります。いや、じゃあどの分野なら見識があるのかといわれると更にさらに悲しくなるのですが、今回はその輪を掛けて悲しくなる筆頭分野、フランス語の言い回しを使ったラカンせんせいのネタ。

 ひとさまのはなしを信じるというのはなかなか難しいもので、こちらがまじめに聞く気があっても、先方がそれをどう思ってくれるかはまだわからないものです。
 いちおう理性的な人間であるという建前上、っていうかその立場を期待されてるのかなという前提上(もしかしたらこの時点からしてすでに錯覚があるのかもしれない)うんうん、まずは先方の話を丁寧に聞き、それに理性的な判断を加えつつ先方とともに検討し、もしかしたらあるかもしれない先方の話の歪みも先方が納得して頂ける形で修正を加えつつ、最終的に円満に合意に達する、べきかしら、と今でも思わなくもないのですが、残念ながらこれがうまく行くことはあんまりありません。相手が孤立的な状況にあるときはなおさらです。ちょっとでも相手の主張に異を唱えたら、何もかも駄目になってしまうというのはよくあることです。

 じゃあ、真偽定かならぬ相手のいうことをまるっと盲信しろっていうの?という疑問は当然ですが、もちろんそういうことはありませんし、また先方もそういうことを要求しているわけではありません。向こうだっていい大人である場合がほとんどなのですから、むしろそういう信じられ方も迷惑でしょう。でも、じゃあいったい何が要求されているのだろう。

 ラカンのいやみったらしい見かけの裏を探ろうとしてラカンに近づいた人はみな失敗した、なぜなら奴は表も裏もなく、プライヴェートでも筋金入りにイヤな奴だったからである、と書いていたのはジジェクだったかと思いますが、こういうときはたまさか役に立つことをいってくれたりもします。それでは、1975年1月21日の講義から、信じるcroireという動詞について、croireとcroire àないしla croireとy croireのちがいを論じた箇所を検討しましょう。
 ここまで言って早速後悔することになるのは「で、どう違うの?」ということ。うん、外国語の微妙な言い回しのニュアンスまで、わたくしの知ったことではございません。だいたいフランス語のàは正直良く分からない時がままあります。そもそも狼男のhomme aux loupsとかなぜauxなのか未だに良く分かってない。文法書の類を読んでもしっくり来ない。誰か本当に教えて下さい。
 まあ、しかたがないのでこういうときはおもむろに辞書を引くことになりますが(なんてたどたどしいやり方)・・・とりあえずcroireは他動詞で、croire àは自動詞だ、ということはわかります。他動詞と言うからには、何かものかの対象のことを信じることがメインの意味で、自動詞と言うからにはまず信じるという状態を持ちそれがa以降で示されるどこか他所のものよその人に差し向けられるのだろうか、と、まずは考えてみます。神様とか、そういうのは後者。Elle croit au pere Noel. 彼女はサンタはいるもん!って信じてる、ってのも後者。

 まあ、こんな頼りない人間のこの時点で既にインチキくさい講釈を聞いても何にもなりませんから、とりあえず御大本人はどう曰わっているのか、確認してみましょう。後者、croire àに関して、ラカンはこう言います。「意味論的にいいうることとはこれだけです。『何かquelque chose』と言いうるものとしての諸存在に対して信用する、と。」(Ornicar? no.3 ,p.108)たとえば、ひとが分析家の所に来るのだってそうだ、患者はそれについて何か話すことができると、あとは解読してもらうだけ、とおもっているから来るのだとラカンは続けます。
 そこだけ聞くとなにやら曰くありげかつ崇高そうですが、「女についても同様ですね。でも、そんなに確かではないかもしれませんが、彼女が何かを語っていると信じられていることはあるので、この点は例外かもしれません。このことが、栓の役割を果たしているのです。」と言われるとなにやらきな臭くなってきますね、いつものことですが。しかし、ラカンは続けます。「Pour y croire, on la croit. On croit ce qu'elle dit. 彼女に信を置くために、人は彼女を信じます。彼女の言うことを信じるのです。それが愛と呼ばれています。」おお、またしても話が崇高になり始めた!というところですが、更にこう続きます。「だから以前、わたしはこの感情を喜劇的と評したのです。この喜劇はご存じの、精神病の喜劇です。だから世間でも、愛は狂気に近いというのです。」えらいことになりましたね。で、話はこう収まります。「症状での ≪y≫ croireと≪le≫ croireの違いはそうは言ってもはっきりしています。これが精神病と神経症の違いを生むものです。精神病においては、主体は諸々の声・・・に対して信を置いています。Non seulement, le sujet y croient, mais il les croient.声に信を置いているだけでなく、声を信じているのです。」*1



 声に関してはいまさらいうまでもないでしょう。別に精神分析に限らず、精神病の症状で言語幻覚が非常に大きな位置を占めていることはよく知られています。シュナイダーの一級症状なんかでもいいですね。そしてとりわけクレランボーからラカンに至る系譜の結び目というのは、このへんにあるかと思います。
 そして、最後にもう一度女性に話は戻ります。


「一般の愛の形では、もとになっているのは彼女を信じるla croireということです。彼女が絶対的に真正のものではないという証拠は一度も持ったことがないが故に彼女を信じるのです。しかしそれは人を完全に盲目にさせるものですし、ですからそれは栓として使われるのです。いってみればそれはy croireに対しての栓です。これは真剣に問い直されるに値するものです。なぜならそれはUne(女性が一人)はいると信じることだからです。そうするとどうなるかおわかりでしょうか。La(女性)というものを信じるところにまで至るのです。これはいかにももっともらしい信頼です。・・・y croireということが持つ意味は何なのかを知らねばなりません、そして、y croireのためにはla croire以上にいい方法はないという事実の中に、何か必要なものがないのかどうかを知る必要があるのです。」

 うむ、なにやらえらいことになってきましたね。この話を次回は少しずつ解きほぐしてみることにしましょう。

*1:講義の記録という都合上、それをどうテクストに起こすかの異同が深刻な問題となる箇所というのがどうしても出てきますが、声に関するこの最後のパッセージに関してもそのとおり。この箇所はまたOrnicar?版を採りましたが、association版ではle sujetの補いがありません。Dans la psychose, les voix, tout est là, ils y croient. Non seulement, ils y croient, mais ils les croient.正直こちらではこの文をどう解釈していいか私には分かりませんが、困ったことに手元の音声ファイルを確認する限りご本尊様ののたまわっていることはそのまんまこちらのようです。いまは、Ornicar?版の責任者、ミレールさんの解釈にそれこそ「信を置く」ことにします。