ぱーちーぱーちー


 さて、ハイデッガーの退屈論の二番目はパーティーでした。親しい友人、美味しい食事、綺麗な音楽、食後の葉巻・・・何一つ退屈なところがなく、満足して帰路に就きます。でも、、あとから振り返れば私はやはり退屈していたのだ、ということ。「或る種の空虚が自己造成するという形における空虚放置」(193)ここで、なんとなく見えてきますでしょうか。

 われわれの最初の仮説は、列車に乗り合わせる群衆そのものの外傷性、ということでした。まずハイデッガーの退屈の第一の例では列車そのものがご登場。そして、第二の例では、今度は群集が登場してきます。

 え?友人のパーティだよ?群集じゃないじゃん?と思う方もいらっしゃいましょう。この感覚は、集団の中で上手くやってはいても、なんとはなしに溶け込めないタイプの人々なら分かってくれそうな気もしますが、もちろんそれだけでは説得力が弱い。そこで、ちょっとハフシ先生の実験する集団にご登場願いましょう。
 ハフシ・メッドさんの「愚かさ」の精神分析―ビオン的観点からグループの無意識を見つめては、ビオン派的な見方から集団心理を実践的に扱った観察報告を中心に書かれています。おおくの場合被験者は学生であり、授業でグループ心理を学ぶという目的で、小グループを形成します。ビオンに関してはもちろん集団精神療法の基礎が基本文献なのですが、多分しばらくは復刊する見込みなさそうですね。。。

 さて、面白いのはこのグループです。グループには、他から与えられる課題はありません。そこでひとびとは、漠然と自己紹介をしたり、ありきたりな会話をしたりする。良くある光景です。しかし、どこまで行っても状況はこのまま。そうすると、被験者達の反応は極めてトラウマティックになってくるのです。特に実験を主催する観察者たるハフシ・メッド先生に対して。このあたりの集団の心理形成はビオンのモデルに上手に乗っかっていきます。他者あるいはスケープゴートへの非難という闘争と現実回避という逃走を繰り返すか、あるまだ見ぬ(そして決して到来してはならぬ)漠然とした希望をメシア的に褒めそやすか、あるいはグループの中の誰かがペアになり、そこから何かがもたらされるような錯覚を抱くか。ネットの掲示板風に言うと、叩き・煽りスレ、絶賛スレ・信者スレ、そして固定ハンドル取り巻きスレ、というところでしょうか。これ、上手く嵌りすぎてかえって論文等では使いにくいくらいです。
 フロイトの集団心理論がリーダーを頂点とした分神経症的なモデルであるのに対し、ビオンのそれは精神病的だ、とは良く言われます。もっとも、ハフシ先生の論考は、そこに神経症的な傾向も加味していくという点で、実践家の細やかさを感じさせるものになっていますが。そう、じつのところこの文章自体もじつはこのハフシ先生の本の印象から生まれたものです。ひとびとの群れの中での退屈って実は剥き出しで取り出すとかくもトラウマティックなのだろうかと。そんなわけで、退屈をかくも大仰に論じたハイデッガー先生の気分が、前回扱ったときとは別の方向から良く分かったような気がした、と。もちろん、ハフシ先生の本の主旨とはまったくあさっての感想です、これ。

 でも集団がトラウマって、そりゃあんた非社交的過ぎるんじゃないの、というお叱りはまことにごもっともですが、それはともかく、無目的(というか多目的というべきか)かつ互いに匿名的な集団というものが19世紀の産物だったとは言わないまでも発見物だったことは忘れてはいけません。そしてそれにたいする分析として、ルボンやタルドの業績が一方にはあり、他方もう少し明るい(のか?)側面としては、アーケード街をぶらぶら歩く群集の誕生を描いたベンヤミンがいることになります。そして、その群衆達が次第に組織化されていくに至るまでには、幾ばくかの時間がかかりました。その完成は、ゴッフマンの『集まりの構造』によって描かれることになります。というか、あの本じたいも都市生活の究極の暇潰しの方法一覧、というべきでしょうか。
 ビオンの集団心理論もまた、第二次世界大戦の傷病兵の治療から生まれてきた、ということは指摘しなければいけないでしょう。(ちなみに、戦後にラカンがその辺の視察に行って報告を書いたものが残っています。"Autres Ecrits"のなかの"La psychiatrie anglaise et la guerre"を参照して下さい。もちろん、ここで軍隊までを「群集」のなかに入れてしまうのはいかにも粗雑ですが、しかし、鉄道と国民軍。19世紀そのものですね。どうしても何か言いたくなってしまいますがここは我慢。ちなみに何となく鼠男症例を思い出した貴方はけっこうなフロイトマニア。

 ともあれ、その著作を読みながら、この圧倒的な圧力に耐えきって何もしない立場を貫けるのはハフシ先生えらいよなあ、と、ちょっと感心してしまったりもするのですが、それはともかく、このことはわたくしに、人間は集団でいることに本質的には耐えられない、すくなくとも無目的な集団でいることには耐えきれない、そのことは非常にトラウマ的な反応を引き起こすのではないか、という印象を与えました。逆に言えば、その圧力に抗しきれないがゆえに、人は適当なことを話します。その適当さが磨き上げられ洗練されていくと、ハイデッガー的なパーティーになったりするわけですね。『ある種の空虚の自己形成』って、ハイデッガーせんせい上手いこというものです。

 さらにいえば、ここから先人間がその技法をどう磨き上げていくか、という点に関して、ゴッフマンの「集まりの構造」は非常に切れ味良く描いています。そういえばゴッフマンの提唱したいくつかの概念、とくに「儀礼的無関心」をね、和田さん)はある意味では前者に位置づけられますし、ぱーちーぱーちーな生活は後者でしょう。しかし、だからといって退屈がそこから消え去るわけではありません。おかげでひとびとは、いつでもそこにいるのにそこにいない。だから、事故はその間隙を突くのです、多分。

 文学あるいは哲学的文学というジャンルでは、よく「未開社会の賢者が現代社会を切る!」という体でインチキに賢そうなことを語ってみましたみたいなシリーズがありますが、それの真似をして、わたしがもしどっかの部族の呪術師だったら、やっぱりこう言うだろうなあと思うのです。電車というのは不思議な場所で、ひとびとは大地から足を離しスゴイ勢いで漂いはじめる箱の中に閉じこもるのじゃ、そこにはいるとひとはおのれであっておのれでなくなり、魂を身体から放してフワフワと遊ばせ、そこにいてそこにいない所に引きこもらせてしまうのじゃ。そこにとつぜんおもわぬショックを与えると、見ぃ、魂は戻ってこれんのじゃ、と。

 これがホントのたまげた=魂消た

 ・・・我ながらインチキ臭いですね。。。ビオンもハイデッガーも台無しです。

 しかし、わかる方にはとっくにばれていることと思いますが、そう、列車というのはどう頑張っても近代の奴隷船。そのなかでせめて魂だけでも高みへと涯みへと飛ばすパートの仔牛達。ドナドナ。荷馬車は行きます。本質的にはもし「傷つきやすい個人の心」というものが生まれたのだとしたら、それはこの行き場のない奴隷達の魂の浮遊を見るだに、当然のことではないのかね?と、「心理学化する社会が個人を甘やかしてうんぬんかんぬん」となりそうな傾向にちょっと皮肉を言ってみたくもなったりするのです、やっぱり。まったく精神分析的ではないけれど。。。