ドナドナ

 仕事の都合、それなりに電車に乗る機会はあります。
 とはいえ、暇を潰すのになんら苦労するタイプではない(というか、どんな場所でもどんな短時間でも瞑想妄想夢想居眠りへのコースへ転落するのに困ったことはない)ため、あまり気にも留めなかったのですが、たしかにゴッフマンが『集まりの構造』で書いてから諸々の相互行為論ほかに至るまで、電車の中というのはある種特殊な空間ではあります。特に、電車の中で学生に会うとどうも始末に困る、あるいは逆に電車の中で教師に出会うと、これまた始末に困る(まあ教師の場合はどこであっても始末に困る気がしますが)というのは誰しも経験のあるところでしょう。そういうときでも、悠揚迫らず構えることが出来るようでありたいものだとは思うのですが。。。

 とはいえ、電車の中でのひとの実際のうろうろし具合を考えることは、まあさておくとして、ここではちょっと基礎的なことを考えてみましょう。

 このブログで電車が出てきたのは、実は2回ほどあります(もしかしたらもっとあるかもしれない)。ひとつは、ハイデッガーの退屈論。もうひとつは、トラウマの歴史における鉄道事故です。
 まずは後者の方からいくことにしましょう。以前、ジョゼ・ブルンナー『傷つきやすい個人の歴史 トラウマ性障害をめぐる言説における医療、法律、政治』(多賀健太郎訳、岩波書店、2005年4月号pp.5-43)を紹介したことがありました。トラウマの歴史の最初期の頃を描くこの論文でも、もちろんこの種の論文の常として鉄道事故の話が出てきます。
 以前はお話ししませんでしたが、この論文の中でも歴史家達の疑問がいくつか紹介されています。なぜ鉄道事故でなければならなかったのか。まあたしかに、人類はこれまでもこれからも無限にさまざまな災害に身を晒してきましたし、これからもそうでしょう。で、なぜ鉄道だったのか。その論文の中での歴史家達の説明はさまざまです。たとえば鉄道という近代的技術の産物による大量輸送時代への突入という衝撃とか。もちろん、それらの説のどれにもそれなりの説得力はあるのですが、その脇にひとつ、あんまり説得力はないかもしれないちょっとした仮説を置いてみたい誘惑に駆られます。歴史上そもそも、鉄道のような「なんら目的を共有しない、互いに見知らぬ一団が狭いスペースの中に押し込められることはあったのか」ということ。強いて言えば奴隷船はそれに近い気もしますが、まあその辺は良く分からないので措きましょう。

 相変わらずそうやって極論に走るのは、そりゃお前が毎日「あ〜る〜晴れた〜ひ〜る〜さがり〜」って気分で出勤してるからだろう、というツッコミはさておいて(だいたいそれなりに朝早く出てるもん昼下がりなんてのんきじゃないもん、って)その発想に飛躍するには、もちろんひとつはハイデッガーの退屈論、そしてもう一つは、最近機会がありましてちょっと読んだビオン派の臨床家、いま奈良大学で教えていらっしゃるハフシ・メッドさんの「愚かさ」の精神分析―ビオン的観点からグループの無意識を見つめての影響もあります。

 さて、まずはハイデッガーの退屈論から簡単におさらいしてみましょう。もちろん、ハイデッガーの退屈論において、鉄道の話はいくつかある退屈の分類のうちのごく最初の一つ、それもそのマクラに振った話でしかないのは言うまでもありませんが。お時間のある方はこの辺あたりを見て頂ければいいのですが、さしあたりダイジェスト版でお送りしましょう。まずは、ハイデッガーによる最初の退屈の定義です。


「ただ釣られ引き止められ(hingehalten)ているだけなのである。味気ない、とは、それがわれわれを満たさない、われわれは空虚に放置され(leer gelassen)ている、ということである。・・・すなわち、退屈させるもの、退屈なものとは、釣って引き止めておくもの、そしてそれにもかかわらず空虚に放置するもの、である。」(「形而上学の根本諸概念」(川原 栄峰・ミュラー,S.訳、創文社、1998)144頁)

 空虚放置、というのはハイデッガーの退屈論にとってとても重要です。と同時に、わたくしの後輩U君が常々力説する(かれの経験談なのかどうかは定かではありませんが)「SMプレイの究極奥義は放置プレイである」という言葉を通じて、根源的マゾヒズム、あるいはフロイトのいう「寄る辺無さHilfslosigkeit」にまで連想の翼を広げることも出来そうなのですが、それはまあ止めておきましょう。とりあえず、電車待ちの間も、駅舎はわれわれを空虚に放置し、そしてはよこんかい!というわれわれのお願いを聞きません。拒絶します。

 駅舎のはなしから一気にここまでハイデッガーが議論を展開させたわけではありませんが、ちょっと精密さを犠牲にして話を進めると、このような「時間からの拒絶」が、そして同時にその人を拒絶する時間に退屈という形でどうしようもなく呪縛されることが、人間の時間性の大きな特徴とされるようになります。

 そう、人間はある意味、どこにいっても「場違い」な生き物です。時と所を得ない、とは言いますが、この場合は時宜を得ない、とでもいうのでしょうか。面白いことにハイデッガーは、これを困窮Notの不在、といいます。困んないならいいじゃん、と、わたしなら思うのですが、ハイデッガー先生によると


「われわれの現有の内に秘密(Geheimnis)が欠けていて、したがって、どんな秘密でもともなっているはずの内的な驚愕、現有にそれの偉大さを与える内的な驚愕が不在なのである。困却のこの不在こそ、根底において困らせるもの、底深く空虚放置するもの、すなわち、根底において退屈させる空虚なのである。」(「形而上学の根本諸概念」273頁)

ということだそうです。
 
 現有にそれの偉大さを与える驚愕。それが何を意味するのかは分かりません。しかし、少なくともそれが「時宜を得た」という経験であろうかとは、言って良いのではないかと思います。なにせこの論文自体のマクラの話はユクスキュルのノミダニたちでした。かれらは、獲物が通りかかるまで、ただぼおぉっとしています。そして獲物の酪酸に反応して、一瞬で飛び降りる。そうやって閉じた世界のなかに生きる動物たちに比べ、人間の世界は開かれています。何に?それがわからない。そのために、人間は暇で退屈するのです。俺は待っているらしいが何を待っているのか分からない。暇で退屈なのは、待っているのとは違います。
 逆に言えば、困窮というのは人間が今生きている時間の中に、そうした飛躍の時をもたらすものでもある、のかもしれませんね。あり得ない深い欠如への気づきのなかで。ラカン的な欲望の定義をそこに重ねてみたい気分です。そういえば、フロイトが生の困窮Not des Lebensという言葉を使っていたのではなかったでしょうか。欲望と時間。

 ともあれ、人間は拒絶され、そしてそのことを紛らわすために暇潰しをします。ある意味では、暇潰しはこの時間からの拒絶という根本的な経験からのよい逃避でもあります。もっとも、時間がぐずついている(早く来い来いって奴ですね)と思って暇潰しをするけど、今度は時間が意味無く止まってしまい(例のあの停滞感、って奴ですね)結局どうにも退屈だ、というハイデッガーの退屈論によると、これでどうなるわけでもないのでしょうが。

 それでは、次回はハイデッガーの二番目の退屈を論じてみましょう。一回目が時間編だとすると二回目は空間編、あるいは集団編です。