迫るショッカー


 前回までは、まあ言ってみれば改造人間の話がちょっと暗く煮詰まってきたところだったわけですから、気分転換にちょっとした小ネタを紹介してまとめにしましょう。ネタの提供元はR大のM先生。お世話になっております。いちおうこちらで解説がてら、クライン風味の絵解きを足してあります。

 さて、仮面ライダーのたぐいのストーリーでよくジョークにされるのは、「悪の秘密結社(ショッカーとか)はなぜ世界征服を目標に掲げながら幼稚園のバスを襲うのか?」というのがあります。確かに意味無いですね。千里の道も一歩からとは言いますが、私にとっても人類にとってもちょっと小さすぎる一歩です。
 しかし、この疑問は仮面ライダーがショッカーに連れ去られ改造され、その後脱出してショッカーと戦うのだ、というストーリーのグランドラインを思い出し、そして、この時代が、義務教育期間の学童がようやくほぼ全員学校に通うことができる、というシステムが完成した時期であるという知識が合わさると氷解します。
 精神分析では、夢の技法のひとつに圧縮というものがあります。それは、一つの表象が複数の要素をぎゅっと圧縮して表現している、というものです。夢に出てくる女の人が母親と恋人の圧縮物だったりとか。しかし、そちらほどは有名ではありませんが、逆に一つの要素の特徴をバラバラにして別々の表象で表現する、ということもまたあります。意地悪な女の人と優しい女の人が出てきたら、そのどっちも実は母親であるとか。その伝でいくと、ショッカーと幼稚園のバス、というのは、じつは一つの要素、つまり学校という表象の分解なのです。メラニー・クライン風に、スプリッティングでもいいけれど。

 そう、幼児を家から連れ去ってしまう、というのは、義務教育の学校制度以外の何ものでもありません。今でこそ当たり前のような気もしますが、それこそ「おしん」の時代なら、学校になんてやらないで家の仕事しろ、という方が普通の感性なのですから(良いか悪いかは別ですが)、この拉致監禁はトラウマ的です。おまけに改造もします。アルチュセールの軍隊学校教会みたいな話ですね。集団生活への適応とか、まああとは体育教育なんかは文字通りの改造でしょう。

 ということは、ショッカーと幼稚園は同じ学校の表象の分解物です。というか、幼稚園はショッカーです。しかし、まがりなりにも学校制度は良いものだとされているので、表だって反抗するわけにはいかない。だから、良い学校(国が喧伝する義務教育という恩恵)と悪い学校(子どもを家庭から拉致して改造する)を、幼稚園とショッカーに分離することで、ひっそりと学校への敵意を表しているのです。
 仮面ライダーはショッカーに拉致され改造されそしてショッカーに復讐する。このややこしいストーリーが絶対に必要不可欠なのもそのせいです。あれは、学校に行くことを、改造されることを運命として受け入れつつ、なんとかしてその学校に復讐してやりたい、おとなしくやられっぱなしはイヤだ!という、最後の断末魔的ストーリーなのです。

 こう考えると、われわれはずいぶんと早くから、学校を人間改造工場と当たり前のように捉えてきたことに今更ながら気づかされます。この大量生産のモデルは80年代に入って生徒の個性の多様化=バラエティ豊かな品揃え、という少量多品種のモデルに切り替わりました。では今は?さて、なんでしょうね。うまい切り口を見つけられればいいのですが。できれば最近またやっていたという仮面ライダーシリーズをチェックするべきだったのかもしれません。(あれ、もう終わったんでしたっけ?)今度は何か、吉野の里の鬼になってるらしいですね。

 そう、たぶんわれわれはもう、改造人間にされることには苦悩を感じなくなってしまったのです。みんなそうだし、そのほうがうまくやっていける。それにだいたい、義務教育や国家に対抗するもう一つの原理であったものが、もう無くなってしまっているのです。それは家族といってもいいかもしれませんし、あるいは近代の核家族ではないということを明確化するために、地域共同体というところにまで枠を広げてみた方が良いのかもしれません。あるいは「郷土」でもいいでしょう。そういえば、仮面ライダーが改造されるのが「バッタ人間」であるというのは、なにやら示唆的ではあります。田畑を荒らせ、というわけですな。

 南方熊楠の美しいテーゼによれば、愛国心愛郷心をもとにしており、そして愛郷心を支えるのは鎮守の森の森林神林なのだ、ということだそうです(川村竹治宛書簡[明治四十四年十一月十九日付])。真正草の根保守というか、ビルトアップ的な保守の理念ですね。とはいえ、熊楠の書簡は、「だから鎮守の森切るなバカ」という話(エコロジーの先駆けとして名高いものです)が主旨で、愛国心の話は脅しがてら、その基盤がつまるところ下から崩壊していくよ?という話だったのですが、われわれの話は上からの崩壊、のような感じ。郷土の方が失われ、土地の子らが改造される苦悩はもう終わってしまった。次はじゃあ、と考えたとき、われわれが「改造されたら苦悩しちゃうかも」と感じられるのはエコロジー、つまり自然ということしか残っていない、ということでしょうか。まあこの辺は、当該作品を見ていないので何とも言えませんが、一言で言えば「失うモノさえ失った。なのになんか失ったことにしないと話が出来ない」という苦しさがこの疑似神話性の強化につながっているのかもしれませんね。

 そうそう、そういえば、こちらのナタデカサーカスさんで、仮面ライダーのアフターストーリー仕立てで"Hybrid Insector"という漫画が掲載されています。未完のようですが。仮面ライダーはここでははっきり戦争用に改造された人間で(厳密には、戦争の際に活躍した、とだけあって、誰が改造したか、は述べられていないようですが)、戦後は駆除の対象になっています。まさに害虫駆除。経済成長の名の元に自然を食い荒らした企業戦士の成れの果は、バッタだけにばったばった・・・

 おあとがよろしいようで。。。