人生設計


 さて、東先生の著作ですっかりおなじみになった「動物化」という概念ですが、ここはコジェーヴの転向前のオリジナルモデルのアメリカモデルを参照しましょう。で、その順序をひっくり返して整理してみることにしましょう。

 さて、ほんでは動物とは何か、と考えますと、それは与えられた環境に適応できるかできないか、しか選択肢をもたない生き物のことを指します。ホントか嘘かは知らないけどヘーゲルからハイデッガーそしてラカンの初期の著作からベイトソンに至るまでこの考えは出てきますから、まあけっこうメジャーな考えかたなのでしょうね。そして、この文脈では対照的に人間は、みずから環境のほうを変えることで生き残ることを選ぶ(こともある)生き物、としてそのアイデンティティを得ています。ですが、歴史が終わった、ということは、人間がみずからの手で作り出した人為的な産物であるはずの社会がもうこれ以上変わることはない完成を迎えてしまった、ということを意味します。だとするなら、人間はかつてすぐれて人間のアイデンティティであった、環境の方に変わって頂く、この場合は社会の方に変わって頂く、という選択肢を、もう手にしていない。つまりこの先社会体制は未来永劫不変。当然価値感の体系も不変。ならば、残されたのは環境に適応していくことだけ。ちゅうことは、動物と一緒。これが動物化の理屈です。
 そう、生-権力が「環境管理型」と言われるのは伊達ではありません。この場合の環境というのが意味を持つとしたらそれは人間に対してではなく動物にたいしてです。人間は環境変えちゃうからダメ。ということはもちろん、純粋に人間を動物的に扱える生物学的な技法が主であるべきですが、同時に人間的な、サール風にいえば構成的規則から成り立っている構成的現実のほうも、なるたけ動物にとっての環境のように不変のものと思って頂くように教育しなければなりません。まあそこまでいわないでも、あらゆる社会的な規則において、構成的規則から規制的規則への回収が図られることになるでしょう。ラカン的な図式で言う「象徴界」は次第に力を失い、三つの分節化からはずれる日が来るかもしれません。

 コジェーヴの日本モデルの動物化の話はさておくとして、いまわれわれも「社会の方に変わって頂く」という主張にはどうしようもない古くささ、時代遅れの、一昔前の左翼めいた気配を感じてしまいます。そうはいうけどえらいひとは構造改革を連呼している、ようでもありますが、実際にはグローバルスタンダードに一元化する動きであることには変わりないのですから、それは適応であっても変革ではないでしょう。まあ、よろす精神障害も「適応障害」に回収されそうな勢いですし。こうしてみるとフーコーが既に社会的な悪が生物学的な悪へと回収され喧伝される、と言っていたことが予言者的な意味を持って思い出されてきます。「かつては主体、つまりそこから財産を、さらに生をも引き出すことができる法律的主体しかありませんでした。今では、身体と人口集団があります。権力は唯物論的になりました。もっぱら法律的であることをやめたのです。」(ミシェル・フーコー 「権力の網の目」[『ミシェル・フーコー思考集成Ⅷ』所収、石井洋二郎訳、筑摩書房、2001、p.414])

 そして、いわゆる「動物化」の議論の中では、なんだか進歩や改革への意欲を失って日々のんべんだらりと過ごす、みたいなニュアンスで動物が語られてしまっている(ような気がする)ために、あまり焦点が当てられていないような気がするのですが、じっさいのところこの話の皮肉なところは、動物化すると人間は本当に動物なみに扱われる、という文字通りのオチが付いてきた、ということでしょう。動物なら、工場の原材料呼ばわりしても誰も文句は言いません。ブリジッド・バルドーには別の意見もありましょうが。まあ、原材料とまでは行かなくても、劣悪な職場環境のせいで心の病になったとしても、それは適応障害抗うつ剤をぶちこんで明るくなって元気出して適応して下さい、って話です。職場環境の方も変えるべきでは・・・というささやかな申し出は意味がありません。なにせ、僕たち動物ですから。環境を変えることは論外。絶滅するか、あるいは別の場所に逃避するか。運良く生き延びるか。三択です。「イヤならやめたら?」って奴ですね。

 こう考えると、いちおう、サービス業モデルと工場モデルは見かけほどは異なることなく、それなりに仲良く手に手を取って大行進してくれることになるはずです。環境は不動の現実であり不動の現実は環境である。だとするなら、その環境の中に適応するようみずからを加工することこそが、生き残りのために必要。
 不思議なのは、この主体がいかにもデカルトのパロディのような様相を呈することです。ジジェクはすでに、極端な唯物論(というか、人間機械論的なイメージの唯物論ですね)と、極端な観念論は矛盾しないどころか一致する、だからこそその双方をデカルトが兼ねていたのだ、と指摘していますが、それによく似ています。みずからを加工する主体は、どこまで行ってもその核は加工によって影響されない、極端に観念論的な位置に置かれ、加工される方の身体は純粋にモノとされます。

 ラカンは、ミュンヒハウゼン男爵(日本ではほら吹き男爵ですね)の沼地からの大脱出の話が好きでした。自分で自分の髪の毛を掴んで引っ張り上げて、底なし沼から脱出するというあの話です。みずからを加工して加工して、でもその加工を判断する本人はどこにいるのかしら、と、ふと疑問に思うとき、わたしはいつもこの話を思い出します。加工モデルとサービス業モデルが無理なく融合しているということは、その加工をサービスとして受け取る主体は、本質的には何も変わらない、ということです。少なくとも、その加工が何を意味するのか、を判断する主体は、その加工の前後で何ら影響を受けない、ことになるはずです。つまり、自分は変わった(スキルはアップした)のに変わってない(その変化によっても、何を持って価値あるスキルと判断するかの主体の価値感は影響されない)と主張すること。そんなことが可能なのだろうか、というかそれを教育と考えるべきなのかしら、というとき、わたしはミュンヒハウゼン男爵の話を思い出すのです。おまえは自分で自分を沼地から引っ張り上げているように思っているみたいだけど、実は誰かに子猫よろしく首根っこひっつかまれて持ち上げられているんじゃないの、と。

 もちろん、この矛盾を処理する簡単な方法もあります。この観念とモノと、二つの主体を極端なまでに乖離させてしまえばいい。というか、解離させて、というべきでしょうか。そして、出来れば加工された主体は加工する主体とはまったく無関係、とまではいかずとも、純粋に操作的な対象で、そちらからの、対象レベルの主体からの影響を、操作レベルの主体が受けることは原則的にはない、というところまで突っ走ればいい。それはちょうど、自分の居場所のない人混みの中をやり過ごして上手くやっていく方法が、離人的になり、現在の自分をナレーションし、そのナレーションする主体だけがリアルな主体、と考えることであるのとよく似ています。ラカン風のパロディにすると、《他者》への引きこもり、とでもいうことになりましょうか。

 しかし、ここでいう《他者》とは、ラカン風にいうなら主人(S1)ではなく知(S2)、ということになるでしょう。

 ラカンセミネールの第17巻でこの主人や知という話をしていた時代(1969-70)は、まさにフランスでも五月革命の余波を受けた、学生運動華やかなりし頃(表紙もそんな写真ですよね)、だからそこから言っても17巻のテーマは「大学における産学複合」である、というのがわたくしの年来の持論なのです。これ、普遍的な見解なのかどうかはさだかではありません。念のため。そして、知の言説の構造の一つの特徴とは、なんら主体的な関与や決断を前提としない、という点におかれていました。ラカンハイデッガーとティヤール・ド・シャルダンをパロディにして「真理圏」という言葉を使っていますが、それは真理が人間の関与を離れたことを意味します。たとえば、音響の真理は波長、そして波長を計測する計器に委ねられるもので、人間の耳には関係ありません。そうすると、知は次第にノウハウに変化していく。古代の書記奴隷は一応主人の言葉の内容を理解し書き取るひとたちだったけど、現代の書記奴隷(学生のことです)はテープの録音ボタンを押すだけ、みたいな。そのうち授業用資料のダウンロード、ってことになるんでしょうけど。

 まあそれはさておき、そうなると人間のやることというのは、この知のレベル、それも多分に操作的な知のレベルに立ち、そこに同一化して、みずからをその知の見地から分節化し主体として生産する、というのが、ラカンの知のディスクールの構造でした。そして、その知を影から制御する真理が主人としての資本と。ですので、わたくしは17巻のテーマを産学協同だと考えている、というわけです。分析家の読者にとっては分析家のディスクールとかの話もあるので、そっちの方が面白いのでしょうけれど、基本的に主人、ヒステリー、分析家のみっつは過去のセミネールの中に散見される話のまとめと図式化、という性格が強い気もするので、こっちを優先、ということで、どうでしょう。

 というわけで、話は一応まくらに振った産学協同に帰ってくることができました。
 けれど、忘れてはならないのは、くどいようですがこの種のモデルは望まれており、当の主体にとっても享楽をもたらすものであるかもしれない、という点です。なにせ、ラカンもこの言説構造内での主体を「生産物」と捉えていることからも分かるように、解離が限りなく進めば、そこには主体を生産物として、いわゆる「ライフプラン」に則って生産加工するという楽しみが、主体(?)に残されることになるからです。(?)を付けたことからも分かりますように、これはもう主体といっていいのか分かりません。むしろ「ユーザ」というべきなのかもしれない、とも思います。

 そんなわけでまあ、オチとしては、工場モデルの大学教育を倫理的に憂えるということより、そこに(工場経営者側に)同一化してみずからを加工するユーザが得ることが出来る享楽、このある種奇怪にマゾヒスティックでもありサディスティックでもある享楽をどう位置づけるかを考えるべきかもしれない、ということでしょうか。そう、端的に言うと、自分にたいしてサディスティックであるのにマゾヒスティックではない、という、この問題です。

 それでは最後に、ラカンせんせいの一言で締めを。


真理の兆しは今や別のところにあります。古代の奴隷に取って代わったものによってそれは生み出されることになります。つまり、自分自身もまた生産物である、よく言われる言い方をすれば他のものと同様に消費可能なものである、そんなものたちによってです。消費社会、そういわれています。ある時期では人的資源といわれていました。それが気に入った人は拍手喝采を送ったようですが。(seminaire 17, p.35)