ほんとのわたし


 さて、前回は
「原材料(学生)を仕入れ、加工して製品に仕上げ、卒業証書という保証書をつけ企業へ出す。これが産学連携だ」

という某えらいひとの発言を元に、大学教育における工場モデルとサービス業モデルの融合について考えていこうと話を切り出したのでした。

 第二次産業第三次産業をいっしょくたにしろってのは、それはそれで我ながら無理があるはなしですが、やはり手掛かりになるのは「たぶんこういわれてもクビ大の先生も学生も誰も怒らなかっただろう」ということ。じっさい、騒ぎにも何にもなっていないみたいですからね。要は、いまわれわれは自分自身が加工されてはじめて製品化し、市場に流通出来るのだということを知っており、みずからその加工による付加価値の添加を大学側からのサービスとして対価を払って受け入れることを望んでいる、ということです。さしあたり、これを付加価値加工モデルと名づけておくと、この両者の止揚がはかれることになります。

 さて、で、それの何が悪いの?

 というご意見は出てきて当然ですし、まことに正当な疑問であるようにも思えます。いま、われわれの教育観というのは、むしろこのモデル、つまり工場モデルとサービス業モデルのある種の野合によって形成されているようにも思えます。反論できますか?といわれると、ちょっと悩むのですが、いかにもものの役に立たない迂遠な主張だ、といわれそうなことを予期しつつ、二つ問題を考えてみましょう。ひとつは、転移と潜在性、という問題。もう一つは、社会の環境化による人間の動物化、という問題です。
 ほいほい、潜在性ってなによ?ひとりひとりのもつ潜在性なんてきれい事はもうたくさん、というわるくちも聞こえてきそうですが、ことはそう単純ではありません。
 まず、この付加価値加工モデル、何が足りないというのでしょう。
 それは、この価値というもの。価値を判断するのは誰かしら、ということ。
 近代的主体にとっての価値を論じたのも、やはりハイデッガーでした。「存在するものの近代的解釈にとって、体系と等しく本質的なのは、価値の考え方です。」(「世界像の時代」(桑木務訳、理想社、1962)、p.51)表象の対象としてあるものは、体系の中で価値を与えそれにしたがって計られるものになります。価値とは、それがそれ自体として意味、あるいはより正確にはそのあるべきところを得るのではなく、周りとの関連の中で、つまりはその体系の中である位置を一時的に占めることを指します。
 そして、そのモデルを維持できるのは、あるひとつの確実性を人間が手にしていると考えられるから。「根本確実性とは、表象する人間と表象された人間的あるいは非人間的な存在するもの、すなわち対象的なものとが、つねに確保されてともに表象されていることなのです。」(前掲書、p.65)つまり、われわれはこのモデルを用いているとき、表象する自分も表象される(加工される非人間的な存在としての)自分も、確実なものだと受け取っています。つまるところ、世界の体系は疑う余地もないくらいはっきりしており、自分ははっきりとそれを知っており、そしてその体系の中で捉えられると、対象としての自分はどのようなものであるかも、これまた知っている。まあ、こういう主体を作り出すために、われわれはいろんなところで適性検査とか、その他もろもろの自己分析とやらを学生にあてがうことになります。

 じゃあこれが、潜在的な傾向の発見、ってことでしょうか。

 まあそういうことはないんだろうけど、じゃあなに、既成の価値観を壊すような人材の育成を、って意味もなく出来もしないことをアジるか?というツッコミは当然あるものでしょうが、ここはちょっと卑俗なたとえ話でそのへんを理解して頂きましょう。

 高校から大学くらいの、青春真っ盛りというかまだまだ若いなというか、その辺の恋愛でありがちなことに、「私のどこが好きなの?」というのがあります。
 恋する男が女の子を一生懸命口説く。乗り気じゃない女の子。とはいえ真剣な男の子を無碍に断るわけにも行かない、という程度に中途半端にお行儀の良い女の子、とりあえずこう男の子に問い直す、というのは、じつに良くある話(一部経験談を交えて進行しております。)
 ジジェク先生の読者には、そうそうジジェクの好きなあの話、どこを挙げても納得しないヒステリー女の話でしょ、と思われるかもしれませんが、この話はちょいとずれています。ジジェク先生のたとえが、ある種痴話げんか的な色彩の強い、詰まるところは恋する女性が「でもあなたは私のすべてを知ってはいないのよ」という神秘を保つことによって、純粋に欲望の対象であり続けようとしているのだとすると、こんどのたとえは別。本当に彼女は欲望の対象であることを嫌がっており、そんな立場に置かれたことに納得できないでいるからです。

 というわけで、一生懸命口説いたらそんなことを問い直された!という可哀想な男の子達の愚痴を聞かされたときには、わたくしはだいたい、うん、それは無理ってことだからやめといたら?と答えることにしています。だってね、そんなこと言ってる女の子、別に真面目とか真剣に考えてくれてるからとか、そういうことはないんだよ。君が何を答えても「貴方は私のこと誤解してると思う、わたしそんなんじゃない」と答えるさね。でもひとたび本当に好きな男の子から君とおなじことを言われると、同じ子がこういうさね。「あの人は私が自分でも分かっていなかった魅力を気づかせてくれたの!」

 この予言は不幸にしてだいたい当たり、かなりのところインチキ臭いと悪評高いわたくしの人生相談の中では数少ない、なかなかの的中率で幸か不幸か好評なネタの一つなのですが、要するに転移とはそういうことです。そして、内田先生の「師への愛」風に、教育にも転移が必要であるとするなら、それはこれだけのことです。
 いや、それは相手の男の価値感に染まったっていうだけじゃないの?という指摘もありましょうが、転移というのはだいたいはその手の制御は不能です。言ってみれば水門が開くというよりは堤防が決壊したようなもので、そのあとどっちに流れていくかは神のみぞ知る。しかしながら、その流れの軌跡がその主体の潜在性というもので、これはもう諦めて甘受するしかありません。弟子の方はそれが師匠の教えた道であると思っていたりするようですが、いつかそれはふっと消えて、単に自分の潜在性が地から芽が吹き上がるように花ひらいたとしか記憶に残らない日が来るでしょう。

 ジジェクの援用するヘーゲル風の物言いをすれば、真理というのはそれが明らかになったときには真理の尺度そのものを変更するような何かを指します。単に、これまで知らなかった新しい知識が一つ増えたというだけのことではありません。ま、もっとも、転移を潜在性と捉えることに関してはもう少し色々と考えるべきことがありそうなので、こんかいはとりあえずの措定ということにしておきますが。

 ともあれ、付加価値加工モデルには、この潜在性は欠けています。なんといっても、そのモデルでは対象化された自分を自己加工していく、対象化する主体自体は不変であるという前提があるからです。そして、実のところその対象化する側の主体とは、主体自身ではなく体系である、ということも。

 二つめに挙げた、社会の環境化というのはこのあたりを指します。つまるところ、なぜ教育から転移という側面が失われてきたのか、ということの理由をそれなりに考えなければいけない、ということです。
 次回はこの二つめを考えて、まとめてみましょう。