よ、労働者諸君


画像は「僕の見た秩序」さんからお借りしております。

 さて、冒頭からいきなりなんなの?なによ?という感じですが、うん、ネットの世界ではこの妙に唐突なぶっとび感あふれるポスターで有名になった日本郵船さま、この名前、最近またちょっと聞く機会があったので思い出しました。というか、そのニュースを見て、うーんと日本郵船日本郵船、なんだっけ何か知ってたと思うんだけど?と乏しい知識を総動員して出てきたのがこれですから、我ながら困ったものです。

「原材料(学生)を仕入れ、加工して製品に仕上げ、卒業証書という保証書をつけ企業へ出す。これが産学連携だ」

 ほうほうすごいねえ、ということで、さすがにちょっと発言の主が気になり、元日本郵船副社長、現首都大学東京理事長の高橋宏さまのキャリアを拝見して来ました。一橋で石原慎太郎都知事のご学友だった、ということのようで、それならばこの人事も頷けるものがあります。この手のちょっと露悪的などぎつさを現実主義的なかっこよさと勘違いして良いのは中学生までだよ、というあたりがまあそっくり。じゃあ、露悪ついでに、これからクビ大の学生さんを見かけたら「よう原材料!」というべきかしら(理事長公認だもの)いやいやクビ大の先生達の努力を思えば「よう半加工品」というべきか、いやそもそもクビ大の先生達も「よう工場労働者諸君」と呼びかけるべきじゃないかしら、ついでに理事長は工場長・・・まあやめましょう、こっちまで中学生みたいです。
 まあ、卒業証書が保証書であるということは自戒の念を込めて同意できるにしても、その他の部分ではいっさい納得できないこの発言、それにしてもどうしてこうまで腹がたつのだろう、と考えると理由はいろいろありそうですが、とりあえずゆっくり考えてみましょう。

 まず、この発言では大学は工場のモデルでとらえられていることは明らかです。かつで大学はレジャーランド化といわれたりしましたし、また最近はサービス業のメタファーで語られることが増えたりしていますから、どちらかといえば第三次産業的なモデルのほうが多かったのですが、ここではあからさまに工場。「人間資源Menschenmaterial」というハイデッガーの言葉に関しては、以前にお話ししました。ひとつきほど前にこのことを考えていただけに、この記事が余計に腹が立ったのかもしれません。人間は材料でしかない、というのは、まあ近代の真理ではありますが、近代の野蛮さそのものでもあります。

 資源あるいは原材料。この言葉を聞く度に、首都大学の学生さんたちの親御さんの努力はどうなるんだろう、と微妙に考えたりもします。周りの友人に小さい子どもをもつ方がここのところ増えたせいもあって、なんぼまだ子ども未熟つったって大学生まで育て上げるってあんた並大抵のことじゃないよ、と思ってしまうのですが、おそらくこれは工場モデルの他のどこの文脈でも言えることなのでしょう。木材なら林業、農作物ならお百姓さんが、工場にとっては仕入れてきて入り口に積んである原材料でしかないものを、原材料になるまで育ててきたはず。石炭や石油だって地球の歴史が育んだ、っちゃあそれまでですが。そして、それが単に資源や原材料に変わるとき、というのは、モデルが養育から収奪に切り替わったことを意味します。取ってきてお仕舞い。掘ってきてお仕舞い。人間資源といわれ原材料といわれて製品化された学生達は、製品であるからにはある単一あるいはいくつかの想定された用途のために加工され、やっぱり最近の製品にふさわしく使い捨てにされるのかしら、とか考えてしまいます。

 でも、たぶんこの話はそういう文脈で語るべきことでもないのだろうなあ、とも、多少頭を冷やせば思いつきます。やはり物事はもう少し枠を広げて考えてみるべきでしょうし、この場合は少なくとも、最近大学人自身が盛んに唱えて(しかも目標として追求している)「大学のサービス業化」とおそらくは一つの土壌の上にあるものと考えないと、話が痩せてきてしまいます。

 さて、サービス業モデルと工場モデルが無矛盾で共存する、と想定するとして、じゃあその根拠となるのは何なのでしょう。

 次回はまあ、その話を考えてみることにしましょう。