吉野家的暴力

 フーコー先生は正確に生-政治の権力の快楽、あるいはラカン的にいえば享楽の問題を指摘していましたし、また次に見られるように、それが資本主義の組み込みに不可欠であることも触れていました。


「このような<生-権力>は、疑う余地もなく、資本主義の発達に不可欠の要因であった。資本主義が保証されてきたのは、ただ、生産機関へと身体を管理された形で組み込むという代価を払ってのみ、そして人口現象を経済的プロセスにはめ込むという代償によってのみなのであった。」(ミシェル・フーコー 「性の歴史Ⅰ 知への意志」(渡辺守章訳、新潮社、1986)、p.178)

 でも、そこまで行けばあと一歩、この中毒と享楽こそが、人から余剰というか過剰というか、そういう出費を強制できるものであることが指摘されるべきだったのではないかと思うのです。剰余価値をふんだくることができるのは、この享楽あればこそ。中毒というのはこの享楽の暴走を可能にするもののことですし、そうするとそれは金から感情に至るまで資源を無意味に噴出させる、ある種油井のような人間を作り出します。まあ、枯れない程度にくみ出していくのがツウのやり方、というところでしょうか。

 ついでにいうともう一つ。前回もちょこっと触れましたが、この話が新自由主義と関係するかもしれない、といま非常に痛感するのはこの依存と享楽の問題があるからです。牛肉にしたところで、一方で米国産は危険がないよ、といっておきながら、他方で危険かもしれないけどそれを選ぶのは消費者じゃん、と曰う。でもね、貧乏人は生き死にがかかっていますから、いずれ安い物に手を出します絶対(ああ神様そうならないで済みますように)そして、そこにある仕組みとはフーコーのいうように、「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を超えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」(ミシェル・フーコー 「性の歴史Ⅰ 知への意志」(渡辺守章訳、新潮社、1986)、p.116)というその「新しい仕組み」は、「これに乗ったら楽だよ(安いよ)」「みんなやってるよ(標準だよ)」と唆すだけ唆しておいて、いざトラブルが起きると「選んだオマエは何て馬鹿なんだろう」と自己責任を責め立てること確実な仕組みなのです。
 フーコーもここで書いていますが、我々の社会は一方では標準化という名の暴力=誘惑があります。以前デファクトスタンダードの暴力と書いたことがありますが(この辺)個人的には先の引用箇所の「標準化」あるいはフーコー的なノルムというのは絶対このデファクトスタンダートと引きつけて考えるべきだと思っています。(だいいち、この時期以降のフーコーの権力論なんてマイクロソフト論とかとして考えると圧倒的に理解が進むし。)そして、そう、困ったことに、これは暴力としてではなく、圧倒的な力の差を背景にした誘惑として機能するのです。いわゆる「誘惑論」(色んな人がこのタイトルで書いたり考えたりしていますが、特に誰のというわけでもなく)が嫌いなのは、この力関係の圧倒的な差を背景にした誘惑を考えていない場合が多いからです。精神分析の歴史での「誘惑仮説」を考えると、理解して頂きやすいかとは思いますが。この辺も見て頂けると嬉しいです。フーコーのいう権力の快楽とは、この誘惑に似ています。ミクロな権力、恒常性を欠いた絶えず揺れ続けるゲーム、といった、フーコー特有の繊細な(あるいは用心深い)比喩を援用してみるのも結構、多様なプレイヤーの戦略を丁寧に描いていくのも結構ですし、それを誘惑という言葉で描くのも結構でしょう。たしかに、絶対的権力を持っている奴が押しつけてくるルールとそれにたいする抵抗、という単純な二項対立が意味を持った時代は過ぎました。ですが、その繊細さのゆえに、権力の快楽が本質的な暴力性と外傷的な性格をもつことを見落とすことになっては片手落ちだと思うのです。

 さて、この誘惑の厄介なところは、法的な規制の対象にはならない、つまり法が無力な相手だということです。この点もまさに(たとえば父親の娘にたいする)精神分析的な意味での「誘惑」と一緒。
 法というのはある意味では保護主義的な匂いがあるものです。貧乏人は安い物に弱い。無学なものには複雑な製品の出来不出来(耐震設計とか)、あるいは食品の危険性を自分では判断できない。だからこれはよいこれはだめという。というか、禁止と抑圧の主体として現れる。ところが、超自我的権力というのはむしろこれをやったら楽しいよという。そして、それに乗っかると今度は「オマエいまそこで享楽したろう、なんてだめな奴だ」と責めてくる。フロイトがいうように、超自我的権力というのはうまく行っているうちは良いのですが、一度失敗するとものすごい勢いで取られた分を一気に取り戻すべく責めてきます。そして困ったことにこれ、正論なので反論できない、という仕組み。

 ですから、フーコーが、法を抑圧や禁止の審級として考えるのは時代遅れだからやめようぜ、とアジっていたとしても、それは見た目そう思えるほどには、精神分析的な法の概念を批判していることにはなりません。精神分析の理論史的にいえば、そこで描かれる権力像は自我理想から超自我に移行するという歴史的変遷がありますが、フーコーの議論もその流れに乗っているのです。そして、禁止や抑圧ではなく快楽を生産するがゆえに(あるいは生産させるがゆえに)それだけこのあたらしい権力の仕組みは、恐ろしく無慈悲で、しかもコントロール不能な暴力性を持っているのです。

 というわけで、フーコーの生-政治、中毒の享楽と超自我的権力、という問題から考えてみると、よりその脅威、というか救いのないさが現れてきますし、それはこの新自由主義の時代に必要な分析なのではないかなあ、と思うのですが、いかがでしょう。


 ま、聡明なる読者の皆様は一読してお分かりになられたとおり、この駄文は有り体に言えば「安い米国産牛肉、買っていいものか、ああ肉は食いたいが金はない、こんな思いをするくらいなら入れないでくれたままであれば良かったのに」という、貧乏人のため息を理論的に消化したものに他なりません。ルサンチマンとはげにげに恐ろしいものです。フーコー先生そしてフーコー研究者の皆様ごめんなさい、という感じでしょうか。でもね、生-政治いや生-権力というべきでしょうか、この言葉を使うときには、かならずそこで主体に抗いがたくささやきかける享楽への誘惑は何なのか、を考えないとなんとなく悲愴みがかった倫理主義に終わってしまうと思いますし、その誘惑の背後にある暴力性を考えること無しには、生-権力とどう付き合っていくかもわからないとおもうのですが。

 それにね、いくら噛んでもプリオンの味はわかんないもんねえ。。。