寄生的資本主義


 さて、前回はフーコーの生-政治という概念について、中毒と専売制という観点が見られないような気がする、と噛みついてみたのでした。今回はそのあわただしい解説と現代的意義を、あるかどうかは別として一応。。。

 そして、研究の主潮が、どうも「国家や資本が生をおもちゃにしてそこから利益を吸い上げている!」という、吸血鬼式発想に傾きがちなのでは、という点にも触れました。うん、中毒式も吸血鬼というか吸血鬼の中の吸血鬼であることは確かですが、吸血鬼映画の伝統をご存じの皆様なら分かるとおり、あれ、吸血鬼に吸われた人は自分も吸血鬼になりますよね。享楽は感染するのです。楽しいのです、きっと。そういえばどういうわけか吸血鬼本人よりもその手下というか感染者というか、かれらのほうが楽しそうにマッドに吸血鬼生活をエンジョイしてますよね。ディオよりそのゾンビたちとか。。。

 それはともかく、生をおもちゃにすることにたいする抵抗としての生-政治の利用、もちろん、そのことは間違ったことではないのですが、その方向でなら、より以前にそしてより深い射程でハイデッガーがその『技術への問い』(「技術論」、小島他訳、理想社、p.35)のなかでいっているような、「人間資源Menschenmaterial」という考えのほうが私としては教えるところも多いと思います。アウシュヴィッツで展示されている、人間素材の靴や編み物。ジョークのひとつの形式というのは、比喩的な表現を『文字通りに』やってみせることにありますが、その典型。そしておそらく、ハイデッガー的な視野は、フーコーが言うような統計学を通じて発見される人口(デュルケムなら「社会」というでしょうし、タルドならそれを「社会の実在論化」というでしょうが、この話はまた別に)、そしてテクノロジーを用いてそれを管理統制する「統治」という三つ組みを成立させる地平は何なのかを考えていく上で、必ず必要になってくるでしょう。
 はなしはちょっと脇道に逸れました。人間資源、嫌な言葉です。ああ、念のためにいっておくと、この絡みで「人材」という言葉がやり玉に挙げられるときがありますが、あれ、材は材料の材ではなく、才能の才と同義、漢語に良くある同音語の転用ですので、それはとんだとばっちり。
 でも、いまわれわれはそんな粗野なことはしません。人間は確かに生物として、資源としてのモノを提供することもできるものですが、また同時に感情という作物を実らせる耕地でもあって、もろもろの娯楽産業はそこを焼き畑農業式に荒らしてはさまざまな感情の芽を刈り取って金にしていきます。人材開発、ってやつですね。どっちかといえば、このほうがさらに嫌な言葉です。
 そして、いつの間にかこの耕地と種の関係はすっかり逆転してしまい、いまや娯楽産業は種屋兼肥料屋になって、すっかり荒れ果てて自発的な感情の生成能力を失ってしまった感情の耕地としての人間資源に肥料をぶち込んで(ここで泣いて下さいとかここで笑って下さいとかいうあれです)その上がりで稼ぐという、まさにマッチポンプ式の商売で人の感情への欲求そのものに寄生していきます。教育というのは、特に一般教養というものは、自己をcultiver(耕す=才能を伸ばす)するもののはずですが、土地作りは水耕栽培に置き換えられてしまいました、という感じでしょうか。
 というわけで、今ではすっかり感情は買うものになりました。ただでなくなったのは安全や水だけではありません。
 そうはいいますが、わたくしもいちおうラカニアンの端くれですから、昔は感情は自発的だったんだ!と主張する気もまたありません。《他者》がアウトソーシングされたというだけのことです。この話はまたいずれ。

 ま、アマゾンあたりで焼き畑農業やって先進国に怒られている貧民たちは、焼き畑という響きの悪い名前はやめて「新自由主義農法」とか「グローバル農法」っていえばどうかなあ、とか、しょうもない茶々を考えている今日この頃ではありますが。
 
 さて、ではでは当のフーコー先生がこの「権力と享楽」について曰うには


「もし権力の機能が主として禁じることにあるのではなく、生産すること、快楽を生産することにあるのだと認めれば、そのとき、私たちはいかにして権力に従いながらも、この従属のうちに必ずしもマゾヒスティックなものではない快楽を見いだすことができるのかということが、同時に理解できるでしょう。」(『権力の網の目』[「ミシェル・フーコー思考集成Ⅷ」所収、石井洋二郎訳、筑摩書房、2001、p.422])
 
 この視点を持っていることの利点は、生-政治という考え方の中に、ある種の惨めさというか、自己責任のようなものを導入できることにあります。精神分析的にいえばもちろん超自我的権力といってもよろしい。一方では新しい享楽を唆しておいて、他方で、オマエがオマエの快楽享楽のためにそれを選んだのだから、オマエの自己責任。それなのに国家が生をおもちゃにしなどという権利はない、と責め立てる審級です。ですから、フーコー自身が「生-政治の誕生naissance de la biopolitique」のなかで、なぜか唐突に出してきた自由主義および新自由主義の問題と、こんにちの新自由主義的な「消費者の選択の自由」のようなものと結び合わせて考えることもできるようになるための一つの核として、この享楽の自己責任の問題は欠かせないような気がするのです。そうすると、より議論にアクチュアリティが・・・という希望もあったりします。とはいえ、これは肝心のnaissance de la biopolitiqueをしっかり読み込んでいない現段階で言えることではないので、また先の話ということで。

 ごくごく大ざっぱに言っても、近代社会といわゆる未開社会のあいだの大きな差異の一つはこうした中毒性物質の扱いにある、といえるのではないかなあ、と思います。タバコであれ酒であれ、あるいはセックスであれ(これ中毒性ではあるけど物質ではないよなあ、ん?物質か?うーん・・・)シャーマンが居てある程度管理して、その管理下での使用が認められるケースが多い未開社会にたいして、近代社会ではその役割は国家が担うことになります。でも、仕事は同じでも目的は別。中毒にして金を巻き上げ続けるところにその目的はあります。あんまり中毒にすると使い物にならなくなっちゃうから、そこはほどよく、薄利多売にうすーくながーく中毒にして、依存し続けさせねばならない。ああ、そういえばタバコ20円値上がりしましたね。愛国者の喫煙者のみなさま、御武運をお祈りします。

 そして、この系譜は長く長く続いて現代にまで至ります。ジェレミー・リフキンが多分にハッタリ混じりの名著、エイジ・オブ・アクセス―アクセスの時代で描いたようなアクセスの時代、という考え方、つまり、ものを所有する・所有させることではなくものへのアクセス権を売り買いすることがメインとなるような時代にまで。一番身近なところでは、たとえばプリンタ本体の値段が馬鹿みたいに安くなり、インクの値段が相対的に高いまま、というのもそうした商法の一環。安値でプリンタを売ってしまえば、そこに依存するようになったユーザが定期的に買い続けるであろうインクの値段から収益が上がる、という奴ですね。(ちなみにそのせいで、こういう犬も食わないお馬鹿な喧嘩も続いています。)1円入札の類も一緒。メンテの代金で回収すればいいのです。そりゃIBMもサービス部門に移行してthinkpad中国企業に売っちゃうという話です。
 そんなわけで、なんちゃら依存症というインチキな依存症がネットワーク時代に入って急速に増殖して口の端にのぼるようになったのも無理はありません。ネットワークが確保されるからアウトソーシングが進むのであり、アウトソーシングが進むから相互依存が進むのです。精神分析的に見ればこの種の諸々の人格機能のアウトソーシングが普通に見られる、という点に関してはこの辺をどうぞ。

 まあ、この議論はちょっと大ざっぱな上に詰まっていないので、フーコー先生の緻密な議論に並べておくのはかなり気が引けるものです。今後またしっかり詰められればいいのですが。とりあえず、近代社会の一つの原理は国家によるその成員の薄い中毒化であり、その流れは福祉社会に至るまで続いている、としてみましょう。もちろんその主体の名前はヒステリーの主体ということになるでしょうし、何に中毒するかというと、そりゃ疾病利得、ということになるでしょう。この場合、塩鉄論が紀元前までさかのぼってしまうことが、ちょっとネックになります。ヨーロッパの塩の専売もいつに始まるのか知っていればもうちょっと議論に厚みも出るでしょう。ヴァロワ朝にはあったと聞きますから、中世には確実にあったとおもわれますがどうでしょう。まあ、近代的専売制の成立、といって逃げる手もあるのですが。

 それでは、次回はこの話のオチを。