調味料ドラッグ


ニポンノミナサン、ヒサシブリデーッス、ニネンブリーノ、ライニチデェース!!!
(タモリ風に)


 というのはまあどうでもいいのですが、約3ヶ月ほど間が空いてしまいました。人生珍しく、この間怒濤の〆切ラッシュを5つも6つも抱えて四苦八苦していたのですがようやく一段落(年明け早々〆切の原稿が一本あったような気もするけどそれはまあいいやという話)。来年はとりあえず、この間に準備した3冊の訳書が無事に出て、怒濤の貧困生活の足しになってくれることを祈るばかりです。

 さて、貧困生活にささやかなメリットがあるとしますと、それはおそらく(ありとあらゆる)感覚が鋭敏になるということでしょう。特に味覚。ありとあらゆるって書いたけどホントは味覚くらいですごめんなさい。寒さや暑さにたいする感覚は鈍ります。というか寒暖にも艱難にも強くなります。間断なく閑談も増えるけど。そのわりには歓談ではないけど。ごめんなさいもういいです。

 そんなわけで、わたくしたまに普通の人と話すとその感覚のギャップの埋めがたさに驚くことになるのです。たとえばおせんべいを食べたとしましょう。わたくしはそこからお米のデンプン質を通じてはるか遠い糖分の甘さを感じ取り、塗られたお醤油のアミノ酸から遠いタンパク質アミノ酸の芳醇さを感じ取ることもできるほどに感覚が研ぎ澄まされているのですが、この感覚はなかなか人に理解してもらえません。(心なしかとても可哀想な子を見るような目で見られているのはなぜだろう、とは思うのですが)とはいえ記者時代に某大手調理師専門学校校長にインタビューしたことのあるM先生の教えるところによれば、その校長先生、学生にものの味を分からせるにはまず50回ほど噛ませる、そうすると味が一つ一つ分離して見極められるようになる、といっていたそうです。そんなわけで次に生まれ変わったら調理師になりたいと思う今日この頃。料理へただけど。好きなのに。。。
 ちなみに、この感覚が鋭利になっていくと、「料理の最少限の定義とは、デンプン質を利用して塩分と油を取ることである」という恐ろしく即物的で強引な定義を提唱するようになるのですが、これが美食とはほど遠いことはいうまでもありません。

 そんなわけで、この感覚を身につけると、砂糖や塩、あるいは油というのは、例えて言うなら大麻マリファナ、コカとコカインくらい(どれもやったことはありません、念のため。)の違いに感じられるようになります。何と何が違うかっていうとまあ、食物に含まれる自然な糖分塩分油分と普通に売ってる砂糖塩食用油の違い。つまるところ、こうした生活になれていくと、自然の食物からの摂取ではなく精製の度合いが上がったものから摂取したときには、ほとんどショックともいうべきものを感じることになるのです。怖いですねえ。
 という話を後輩のU君にしていたら(聞かされる方はえらい迷惑な話で、まあ持つべきでないのはろくでもない先輩ということです)ドラッグに関する歴史をつづった「ドラッグは世界をいかに変えたか 依存性物質の社会史」でも砂糖なんかを精製されたサイコアクティブなドラッグの中に入れていますよ、という話を教えてくれました。読んでみると、まあはっきりそこに区分しているというわけではありませんが、議論の流れから行くとそういう風にいっても構わない感じ。持つべきものは良い後輩であります。
 だとすると、塩も入るよな、というのは当然東洋史出身者なら誰しも思いつくところ。そう、「塩鉄論」ですね。岩波文庫版は絶版のようですが、例によって頼りになる平凡社東洋文庫版は健在です。ちょっと高いけど。ご存じのように、塩の専売は中国では前漢の時代から始まっています。この書物自体は紀元前81年の前漢の昭帝代の朝廷での議論を記録したものですから、ずいぶん長い歴史を持つことになります。もちろん、他の古代文明でどうだったかも調べてみる必要があるのですが、いまちょっと知識がありません。中国でいえば、その後はお茶ですね。もちろん、エジプトのパピルスや中国の鉄のようなケースもあり、一概には中毒性ないし依存性のある嗜好品が狙われたとは言えないのですが、その系列が脈々と存していることは確かでしょう。

 で、それがわたくしがミシェル・フーコーのかの有名な「生-政治biopolitique」という概念を今ひとつ好きになれないでいる理由でもあります。いきなりですね。愛の告白だって唐突にされたら困るのに、唐突に嫌われていい気分なはずもありません。ごめんなさい。
 もちろん、この概念自体の有効性を疑っているわけではありません。なんといっても、もうものすごい流行ってますしね。でも、ちょっとその悲愴みがかった、そしてどうも高尚なテーマに適用されていることが多いような気がするのは、ちょっと気がかり(ほとんど難癖ですな)。いや、フーコーは性の話を中心にしていたよ?というのは確かです。もっとも精神分析業界の人間にとってはそれだけでスゴイ高尚な話ですが。それでもたとえば「異常者たち」で見られるように何よりも「マスターベーション」という非常に卑近なテーマを選んでいてくれたことには感動の年を禁じ得ないものもあります。(そしてこれを読むたびに、わたくしはフーコーとかれの身体のあいだにあったように感じられてならない鋭い違和感に悲しくなるのですが。伝記的事実を詳しく知らないので何とも言えませんが、かれはホモセクシュアルにもヘテロセクシュアルにも、結局どこにいても居心地が悪かったのではないでしょうか。詳しい方は教えて下さると嬉しいです。)とはいえ、個人的には、塩に始まるドラッグ、というか依存性物質の(国家による)専売こそが、生-政治の一番の始まりではないかなあ、と思っているのです。というか、フーコーの話の中には中毒の話が出てこないのは、なぜかなあ、と。

 そう、どうも生-政治といった議論の中には、フーコーの以下の引用箇所で見られるような指摘ではっきりと述べられている享楽の要素が欠けているものが多いような気がするのです。それが、高尚という言葉を使った理由。そのために、どうにもこうにも「国家や資本が生をおもちゃにしてそこから利益を吸い上げている!」という、吸血鬼式の議論に偏ってしまう気がするのです。
 たしかに、生-政治(この場合解剖-政治のはなしが合流してくるので、厳密には生-権力というべきでしょうが)の一般的な理解は、「昔は主権者が法律という虚構で法的人格の主体という虚構を禁止と抑圧で統治していたけど、いまはテクノロジーという現実で生物学的身体という現実を統治している」という感じになるでしょう。まるで人間は動物みたいだと。たしかに、渡辺公三司法的同一性の誕生―市民社会における個体識別と登録でも描かれているように、そうしたテクノロジーには動物に使われるテクノロジーがそのまま人間に転用されるケースもまま見られたようです。(というか、この本のおかげでなぜフーコーが解剖-政治学といったのか分かったような気がします。渡辺先生ありがとう)でも、それだけだとちょっと弱い、という気がするのは、「この新しいタイプの権力のテクノロジーで統治されてると楽しい」というところが抜けがちになるからじゃないかなあ、と。


 次回はこの話の続きをしてみましょう。