情報なき生命

 さて、ちょっと前、とある社会情報学系のシンポジウムに顔を出していたときのこと、「情報一元論」をもとに壮大な理論構築を進めている某先生もシンポジストとしてご出席なさっておられました。
 まあもちろん、シンポジウムというのはそんな理論的な話をする場所ではないので、某先生こと西垣通先生のお話もそれほど込み入ったものになりようもありません。しかし、やっぱり「情報化社会の進展、情報物流のボーダーレス化・・・というグローバリゼーションと、その反動としてのローカル化、あわせてグローカリゼーション」みたいな話を聞かされると、軽い違和感を感じないわけではありませんでした。いや、内容自体はよいお話だったのですが。

 おそらくその違和感は、その前のシンポジストの発表が、都市の埋め込みセンサの分布をスキャンしてマッピングして、芸術的に可視化する、というものだったせいもあるでしょう。センサーとしての都市。もちろん、モバイルデバイスというのはそのセンサの一つです。埋め込みじゃないけど。でも、わたくしはそれをとても恐ろしいと思いました。たぶんデバイスをいっさい持たないわたしは、この情報を発信することもないし受信することもない。じゃあ、この都市のなかで、わたしはどこにいるのだろう、と。貧民とはいえ一応先進国のなかでどうにかかつかつ生きている人間でさえしかり。この社会のなかで、じゃあ、ある種の階層は存在を抑圧されることさえなく、単に見えなくなっていく。ま、排除型社会、というやつですね。この都市のなかで、なにひとつ情報を受信送信できないわたしは、極端に言えばアガンベン風の回教徒みたい、と。いや、棄民でもいいんですけどね。

 というと、まあ古典的なデジタルディヴァイドみたいに話が逸れちゃうので、元に戻すとして。

 さて、実際、よく言われることですが、こんにち人の移動はかつてなく厳しく制限されています。欧米諸国は軒並み厳しい移民制限を布くようになりました。フランスではこの種の反対運動、「ポーランドの配管工」というネタで広まっていたようですが。もちろん、それをローカル化の側面としてみることも可能なわけですが、だとすると観光客から学者、はてはスポーツ選手に至るまで、確かに人のボーダーレス化が進んでいるということは理解できない。するとやはりここは「情報一元論」的に考えてみるべきでしょう。
 観光客は金がある、それ以外の長期滞在を望む人間は何らかの「技能・技術」がある場合、滞在を許可されやすい。ちょいとばかり極論ですが、その種の技能も広義の意味で「情報」とくくってみることができるでしょう。お金はもちろん、今日ではすっかり電子情報です。
 だとすると、人の移動というのは別にボーダーレス化したわけではない、と強引に仮定してみることも可能です。むしろ、人は情報の乗り物として仕方なく入国を許可されたに過ぎない。そう考えてみましょう。そうすると、そりゃそうさ、かつて移民は第一次、第二次産業の担い手として期待されていたのだから、肉体そのものが流入することが求められていたわけだけれども、いま先進国に必要なのは第三次産業をさらに一層発展させる有能な人材なのだから、という向きもあろうかと思います。以前ちょっと、情報化社会というのは、知→財という動きを普遍化する社会だ、いや、かも?くらいかなぁ、という話をしたのは、当然のことながらその一環でございます。

 でも、そう考えると、入ってこれない単純労働者としての移民というのは、じゃあ、情報なき生命?というふうに考えることもできます。いや、情報一元論のなかで「情報なき」というのは矛盾なので、これはやっぱ「ノイズとしての生命」という風に考えるべきかもしれません。ですから、入管業務というのは、ノイズを取り除く作業だ、ということになりましょう。ここには、一応フィルタリングがあるわけですから、ノイズそのものの存在は認識されている、といえなくはありませんが、ノイズが多くなればなるほど、ひとは有意の部分だけをより効率よく拾っていくことに専念するようになるでしょうから、かえって存在は希薄になっていくことでしょう。

 でも、今も昔も人類はノイズを排除して生きていくものであることに変わりはないじゃないか、という指摘もありましょうし、それは正論です。じゃあ、何が違うの?と。

 こういうときにハイデッガーを引っ張り出してくるのは、ちょっと眉唾物、と受け取られかねないのですが(余りにも「いかにも」だもの)まあここは先生にご登場願いましょう。ハイデッガーの存在の議論というのは、ある意味ではとても科学史的な背景を持っているのですから、まあ参加資格なしとは言いません。
 ハイデッガーの『存在と時間』の背景の一つに、ユクスキュルの一連の著作の影響があったということはよく知られています。(そういえば、長らく絶版だった『生命から見た社会』が岩波文庫化しましたね。)そのなかでハイデッガーにショックを与えたのは、たとえばダニさんとか。ダニさんにとって意味があるのはその下を通りかかる生き物の発する酪酸の刺激。それがないときはダニさんは死んだように樹上でじっとしたまま。われわれにとって意味があるように見えるさまざまな自然界の情報も、ダニさんにとっては、それ以外はいっさいノイズなのです。そして、全ての生き物がそのように独自に分節化された世界を持っている、と。

 当然、人間だってその世界を持っているはずです。しかし、ハイデッガー先生は抵抗します。確かに人間は世界を持っているかもしれないけれど、でもこの世界はどういうわけか可変する、と。
 ハイデッガーの「なぜ無ではなく存在があるのか」というあの問いは、ここから解釈することも一つのやり方としてできなくはありません。ノイズなら排除されて、それでおしまい。つまりは無です。でも、われわれはなぜかある日、ノイズのなかにふと意味を、つまりは何かが存在していると言うことを、見て取ってしまう。気づいてしまう。それはなぜ?そして、それが人間の特徴なのかしら、と。そんなわけですから、カルナップ先生、あんまり虐めないでください、という感じ。属性だけじゃうまく行かないって先生もわかってるじゃないですか、と。
 ついでにいえば、ラカンがひところサイバネティクスに凝ったのも、その辺に事情があります。人間の個体差、というか主体性は症状であり、その症状とは単にノイズの一つでしかないものを有意なものとして取り出すことを出発点とする、とされています。有意といっても別にそれ自体で独立した意味を担うという意味ではなくなく、単に他のノイズと識別可能な何かであればいい。あとは、そのノイズの反復や周期から、パタンを作成していけばいい、と。
 もちろん、ダニさんも生き物、ある日進化して、酪酸だけじゃなく他の要素、これまでノイズとして切り捨てられていた部分のなかに有意なものがあって、それを元に行動するともっとハッピー、という世界観の変化に気づくかもしれません。でも、それってたぶん、ベルグソン風に言うと「創発的進化」だよねえ、と、ちょっとおもったり。

 とはいえもちろん、この種の進化が生き物にとってどの程度普遍的なものなのか、あるいは情報一元論のなかで、ノイズが有意なものとして立ち現れる瞬間がどのように確保されているのか、等々、わたくしの理解は及んでおりませんから、あるいはもうとっくにみんなそんなこと言われてるんだよ、ということも、あるかもしれませんし。西垣先生の本とかも、もう少し勉強してみないといけません。

 とはいえ、情報化社会のなかのノイズ、やっぱりちょっと気になるところです。