すべては薄明の中に

「すべて」。フランス語だとtout。この言葉には、いろんな意味があります。
 そして、この「すべて」。哲学的な伝統だと、どうも「1」という数字と仲良しです。なにせ、すべて、というものが存在するなら、それは当然1です。世界のすべて、があるとすると、当然それは一つだけ。つまり、すべて、というからには、すべてをすっぽりと覆う屋根がなければならず、当然のことながらその屋根は一個だけですから、全は一なのです。

 ラカンがすべて、という場合、実はこのすべて、あまり好ましく思われていません。むしろ、ラカンが好んだのは、このような統合する一(un unifiant)ではなく、一つ一つ数え上げていくことが出来る、という意味での可算的な一(un comptant)のほう。ものみなすべてのなかに一として、つまり一つの単位として数え上げうることのできる性質が在れば、ずーっとずーっと数えていけばいつかは全部にたどり着くでしょう、理論的には。というか、可能的にすべて、というほうがいいでしょうか。

 でも、この、一つ一つやっていくしかない「すべて」。これはこれで性別化のマテームでとても重要になってくる話ですが、今は措きましょう。問題はさしあたり、この無意識ないしは大失敗、bevueがなんとかかんとか、全体性という概念とそこからもたらされる価値とは無縁のままに、なんとなくシニフィアンを交換させ、それが延々と続くことで、何とか凌いでやっているようなものであり、時としてはまさに「大失敗」してその交換が止まってしまうこともある、そんなものとして想定されている、というだけでいいでしょう。そして、その交換の領域が、さしあたり主体の領域を作ります。もちろん、主体のなかにもさまざまな通貨圏があって、その諸通貨圏の間で両替にまつわるトラブルが・・・というのは、フロイトの昔から同じだと、前回お話ししました。

 さて、さしあたり、bevue、無意識であり大失敗である、この単位たりえない単位の交換過程。それはある意味で、原初的肯定でもあり、相同という考え方をもたらすものであり、シーニュであり、サントームであり、という材料が出そろってきました。ここでは一応、単位uniteという言葉のラカン的な意味を念のために紹介しておきましょう。


「正確な意味でのunite、私はそれを前回、私のいうところの、trait unaireという形で示すことでそれをみなさんに示そうとしました。私がなぜそう呼んだかについてはまた立ち戻ります。このtrait unaireは差異の支えであり、・・・これはみなさんにお示ししましたように、我々の経験の領域では、その機能において我々が前年フロイトのテクストそのものの中でeinziger Zugとして割り出すに至ったところを示し、検証するのですが、これによってそれぞれの存在者etantsは一つのunであるものといわれるようになります。」1961.12.13

 ですから、このテーマ、やはり問題はこれまで延々と見てきたドイツ観念論の伝統と同じ所で、面倒に出逢ってしまっている、ということに気づきます。このtrait unaireはご存じのように、「同一化が起こるというんなら、なにか同一であるという徴がなくっちゃあいけない。でもその同一化を認識する主体がいる、ということにしちゃうと、話が矛盾して来ちゃうから、じゃあこの「同一」という現象そのものの生起から主体が析出してくるかたちにしなくっちゃあいけない」という問題。ラカンがエクリの冒頭に、「盗まれた手紙についてのセミネール」を置き、延々とサイバネティクスについて説明していたのはこのためです。あれ、単純にいうと、世界のなかに何かこの「同一」というtrait unaire、一なる印が生起するだけで、あとはその自己組織化で主体が析出してくる、というモデルにほかなりません。そして、現象としての知ではなくその知の根拠、というフィヒテ的な問題を、ラカンヘーゲルを通じてこう表現しています。「ヘーゲルにおいて、真理とは私が考えていることが動機づけられているものの場所を指し示すことなのです。」そして、抑圧がどうして必要か、ということも、ラカンはここから説明します。「「私は知らない」とは根底的な忘却なのですが、これはもとの場所に戻ってくることが不可能であるということだからです。」そして人間の、すくなくともフロイト的な意味での人間の思考は「ヘーゲル風に言えばその真理を生み出すか否かするもの、それを問い直すこと」なのである、と(1969.4.23)

 ですから、その「動機づけるもの」、つまりtrait unaireを「同じもの」「同一」であると認めることを可能にするもの、をラカンは考えるようになり、そしてそこから症状の意味を考え直すようになったのでした。ラカンが、このtrait unaireという交換の単位から、その交換そのものを動機づけるものとしてのUnという概念に比重を移して考察していった箇所を引いておきましょう。
 


私はそれを、知を想定された主体として定義しようと試みてきました。それは誰でしょう、分析家です。想定されたという言葉が示すように、それは一つの属性です。属性、それは語に過ぎません。主体があり、その上にあるものがあり、それは知を想定されています。知とは従ってその属性です。厄介しかありません、それは誰かに知という属性を与えることは不可能であるということです。分析において知っているものとは分析主体です。そこで展開されるのは彼の知っていることですから。例外は、彼がいうべきことを、つまり彼の知っていることを追っていく一人の他者のことです、もしいるのならの話ですが。こうした《他者》の概念に、あるグラフの中で、わたしはそれを遮る斜線の印を付けたものです。しかし遮るとは否定することでしょうか。正確に言って、分析が語るのは、《他者》とはこの二重性以外のものではないということです。UNがある、しかし《他者》はいないのです。UNはそれのみで対話をすると私はいいました。なぜなら自身のメッセージを逆転した形で受け取るからです。知っているのは彼であり、知を想定された主体ではありません。・・・「すべてtous」とは、いかなる共通の痕跡をももっていないのです。しかしながら唯一の共通の痕跡をもっています。それは私がunaireと呼んだ痕跡です。これはUNによって強められます、UNはあるのです。私は先ほど、UNがある、それ以外ではないということをいうためにこの話を繰り返しました。(Ornicar?, no.17, p.18)

 この点で、ラカンにおいてもやはり、世界はUnの自己組織化、あるいは「それのみの対話」で成り立っていくことになっています。そして、このUnは一つの知ですが、それについて知っているものはいません。これが斜線を引かれた《他者》、S(A/)です(フォントがないので、斜線はAの上にかかっていると思ってくださいね)。この「それのみの対話」それが、後期フィヒテの「知の自己直観」ということを、私がとても興味深く思ったことの動機でもあります。

 ここで、「ひとつひとつ」ということと「原器」ということの意味、そしてサントームと症状、という問題が浮上してきます。
 セミネール第五巻第二十章の議論を参照して頂ければ分かるように、この《他者》の不在を意味する斜線、これ、はじめは去勢およびファルス、と同定されていました。ですから、このtrait unaireというUnの語らいのなかに、ファルスという共通の原器が導入されていたことになります。いってみれば、それぞれの領域(精神分析的な用語だと段階、〜期、という所でしょうか)のなかで、あるシニフィアンが互いにやりとりされ、そのやりとりの行為によって一定の領域が生まれている、そうした交換という行為で形成された諸領域の間に、ファルスという共通通貨、というか、ドルのような事実的なものでしかないとは思いますが、ともあれそれが設定されている、ということです。シニフィアンの流通不全としての、いわば大失敗としてのbevueが起こって、それが症状として結実するとしても、それはつねにこの国際通貨とのかねあいで解釈されるべきもの、ということになります。これが、症状の基本的な意味でした。ある時期までは。

 そこに明確な変化が見られるのは、このあたりからでしょう。


「母の禁止において享楽の禁止が隠喩化して表現されているということ、これは結局の所、歴史的偶然以外のものではありませんし、エディプスコンプレックス自体もそこにぶら下がっているに過ぎません。」1969.4.23

 ここで、エディプスコンプレックスの構造は明らかに偶然化、ないしは歴史化されています。この「否定」つまり《他者》の不在とは、遮ること、つまりそのままファルスに置き換えられるべきものなのでしょうか。もしそうなら、そこから、母の禁止という隠喩に始まる、一連のエディプス図式がなめらかに成立していきます。しかし交換とその失敗、それをファルスという斜線、国際通貨によって簡単に普遍化して良いものなのか。つまるところ、Unという、何かを同一であると見なすシステムそのものが構築されていれば、何かを共通のものと考えること(そしてその裏では、それ以外のものが否定、ないし空虚化されるということ)がなくても、システム維持が可能なのではないか、ということです。否定なき形式論理学。それは、もはや症状ではなく、サントームとして語られるべきものです。そうすると、周知のようにエディプス図式もまたこのサントームの中の一つの形、あるいは理想型ともいうべきものとして考えられなければなりません。

 ラカンはいいます。


矛盾律とは論理的に過度に洗練されすぎたものですし、論理においては、否定の使用なしの論理を構築することも可能です。」1969.4.23

 この論理をラカンはおそらく、セミネールの二十巻に代表される性別化のマテームのなかで考えていくことになります。しかし、これはまた別のはなし、ということにしましょう。