大文字小文字


 というわけで、前回は発売されて間もないラカンセミネール第16巻"D'un Autre à l'autre"のタイトルについて、あり得べき邦題をああでもないこうでもないと考えてきたのでした。議論を展開させていくと困ったことに、ある箇所の叙述において、un autreなのかun Autreという問題が、予想通りと言うべきか、浮上してきたりして話が更に厄介になりました。念のために言っておくとタイトルのun Autreのところの疑義ではありません。紛らわしいネタが出てきてしまって更に自体が悪化する一方なのに、冷静に考えれば、まあ、一般読者にとってアンがなんだろうと思案の外の懸案に違いあんめえ、というこの事実が悲しい。。。

 まあ、un Autreなのかun autreなのかはともかくとして、いずれにせよ、この363頁あたりからの文脈で大事なのはunという言葉の方です。ラカンはこれをはっきりとtrait unaire、一の線とか単一痕跡とか訳される言葉と関連づけています。この語の説明はさらに倍くらい時間が掛かってしまうので、とりあえずこの文脈の中でのラカンの説明に従いましょう。それは「主体が引っかけられるところ」原語はs'accrocherですから、コートがコート掛けに引っかかってぶらんぶらんしてるところでも思い浮かべて下さればけっこう。《他者》あるいはl'Autreのなかに主体が自分の目印を見つける、ということです。このセミネールでは、trait unaireに関しての別の箇所の説明(365頁)で、ラカンは鏡像とも関連づけてそれを論じていますから、速記録や海賊版がun autre、小文字の他者の可能性を切れない理由も分からないでもありません。
 ですから、一方では、un autreというニュアンスをそこに残したかった事情も察せられないではありません。しかし、更に困ったことに、ラカンのここでの議論でのunは限りなく二重化されているのです。一方がunaire、じゃあもう一方は?というと、それはUN。この場合は、哲学的な意味での一者、ですね。ここで、ラカンは《他者》は一者ではない、という議論を展開します。そして、その論拠となるのは、一方では実は《他者》のなかには空集合が含まれている、というネタ。それを、例の斜線を引かれた《他者》S(A/)という奴とラカンは重ね合わせます。(スラッシュはAの上に引いて下さいませ。)そして、空集合を部分集合の中に反復的に作り出していく操作そのものを、un autreあるいはtrait unaireの反復と捉えるとラカンは考えているようです。つまり、すべてを一つに統一する一者UNとしてのあるひとりの《他者》un Autreが、反復される空集合としてのun、ないしtrait unaireによってl'Autre、別の《他者》へと、あるいは斜線を引かれた《他者》S(A/)と変わっていく過程である、と。


 ついでながら、ここでのunのダブルミーニングは、後にラカンによって「統合する1(un unifiant)」と「可算的1(un comptant)」という区別として整理されることになったりもしますが、これはまた別の話。。。

 したがって、ラカンのここでの文脈から敷衍すると、本セミネールのタイトルは実際には、あるいは《他者》から斜線を引かれた《他者》へ、という風にいうことも出来るかもしれません。しかし、困ったことに話は更にそれだけでは収まりません。
 なぜでしょう?ではワンステップずつ、過程を追っていきましょう。この移行が成立するためには、《他者》の中に空集合がなければならない。その空集合はun autreないしun Autreとしてのtrait unaireによってもたらされる。でも大事なのはここから。主体はこのtrait unaireに向けて自分を表象代理させることになる、というのがラカンの議論の展開でもあります。そして、この表象代理という行為は、実際には空集合としてのtrait unaireの反復でしかなく、それは《他者》のなかに欠如として見いだされた、あるいは《他者》の欲望として見いだされた何かである、ということになります。この反復を通じて、主体は対象aを求めていることになります。ですから、実際には単に《他者》が変容するというだけではなく、その中に主体がどう誕生するのか、そしてその主体の誕生と対象aの析出はどういう関係にあるのか、をも視野に入れないといけない、ということになります。

 では、次回はちょっとさらに一つ面倒な問題も指摘しつつ、オチを付けてみましょう。