重箱の隅

 ここのところハイペースで刊行の続いているラカンセミネール、3月2日には第16巻、"D'un Autre à l'autre"も発売になりました。

 この講義の発売はちょっと嬉しいニュースでもあります。いえ、別にこの講義に特別思い入れがあるとか、そういうことではありません。もちろん、十分面白い方の講義だとは思いますが。というか、不安、サントームと面白いとこから出していこうという意志さえ感じられるここんとこの展開です。でも、嬉しかった理由は別。それは端的に、セミネールが口頭で発表されたものの筆写を元にして作られるものだから、という理由で生まれたある懸念が、いちおう解消されるからです。それはAutreかautreか、一応公式見解が出る、ということ。

 これまでだって、そりゃラカンセミネールのなかでAutreもautreもいくらも出てきたのだから、そりゃおなじことでしょ、というご意見はまったく正論なのですが、個人的にはこのセミネール、ん?どっち?ホントにこっち?と思った箇所が一番多かったなあ、というちょっと暗い思い出があるのです。ただでさえ公的な論文で引用するのはちょっとはばかられる速記録版や海賊版、こういう微妙な表記箇所を含む引用はさらにやりにくい、というのも、またホントのところでございます。

 まあ、実際どこが問題なのか、という具体的な指摘は正規版をのんびり読書しながら各版を比較対照して詰めていくとして、ここではちょっと別の話。このタイトル、どういう意味?ということ。いや、最近この本の出版をきっかけにして、とある先生に雑談中聞かれたからではありますが。
 そういわれてみると、ラカンセミネールのタイトルというのは案外面白い傾向があるとは言えます。特に初期は「自我」「精神病」「対象関係論」・・・と、けっこう精神分析業界用語そのままのタイトルが多かったりします。この傾向は第十巻「不安」まで。中期は「精神分析のなんちゃら」系が増えていきます。第7巻の「精神分析の倫理」はちょいと先駆け。第11巻からは「精神分析の四つの基本概念」「〜の中心的課題」「〜の対象」「〜的行為」「〜の裏面」などなどが続きます。後期はなんか分かったようで分からないもの(「アンコール」とか)から駄洒落かけことば系まで、となるわけですが、この第16巻は、あるいはその先駆けといえるかもしれません。一方から他方、というフランス語の普通の言い回しが、ラカン用語と絡んで、ちょっとややこしいことになっています。

 さて、一般にこのセミネール第16巻のタイトル"D'un Autre à l'autre"、ある一人の大文字の他者から小文字の他者?みたいに考えられていますが、たしかに一方から他方へ、De l'un à l'autreという言葉の並びの自然さから考えると、一方の大文字の他者、《他者》から「もう一方(の《他者》)へ」みたいに読めなくもありません。そして困ったことに、御大は一般に一つのセミネールの中で自分の本年のタイトルに関する説明というのを多分2,3回ちょこっと触れるくらいしかしない人で、このセミネールも例外ではありません。
 とはいえ、セミネールを通読してみると、一応そのタイトルを選んだことに、それなりに納得が行くことが多い(かもしれない)ことも確かです。ちなみにおなじことは講義の要旨にもいえます。"Autres Ecrits"所収のいくつかのセミネールのレジュメは、最初にそれだけ読んでもほとんど意味は分からないという、いかにもラカン的なしろものではありますが、セミネール自体を通読した後目を通してみると、意外にも出来の良い、コンパクトな圧縮率にちょっと驚くことになります。

 ともあれ、まずはタイトル。たとえば、この次の年のセミネール、「精神分析の裏面L'envers de la psychanalyse」を取り上げましょう。このセミネールの裏面、どうもラカンせんせいはバルザックの「現代史の裏面」(御大は「現代生活の」と勘違いしていたようですが)からインスピレーションを得たようであります。もっとも内容はそれとは直接の関係を持ちません。「私が今年、精神分析ディスクールの裏面として切り離そうとしているディスクール、つまり主人のディスクールです。」(séminaire 17, 158)と本人がはっきり述べているように、精神分析ディスクールの裏面は主人のディスクール。「このディスクールが生産するのは他ならぬ主人のディスクールであるというのは大変興味深いものです。」(205)この問いがこのセミネール全体を貫くことになります。この講義が行われたのは、1969-1970年。学生運動華やかなりし時代です。この時代、マルクーゼやライヒのイメージがそうであったように、精神分析はなにやら解放的なイメージで語られるものでもあった、ようです。ここから、ドゥルーズ=ガタリの「アンチ・オイディプス」が出る1973年までに、すでにラカン自体がこの問いを立てていたことは、もうちょっと知られてもいいかもしれません。ご本人に言わせるとこうなります。


(・・・)精神分析はある意味で掟から我々を解放するものだ、という主張を生み出したことについてなどです。
 ずいぶんと夢のある話です。もちろん私も、こういう領域でリベラル派というレッテルが精神分析に貼られたのだということを良く知っています。
 そんなことは全くない、と私は思いますね。私が精神分析の裏面と読んでいるもののすべての意味はそのことなのです。(138)

 という具合で、「精神分析の裏面」というのも、こういうけっこうシビアな認識を前提に、精神分析のもたらした言説が、他の言説といかに絡み合っているかを構造的に取り出してみようという試みにつながっていく講義内容の、そもそもの動機をよく説明しています。割と意外。
 で、"D'un Autre à l'autre"のほうはどうでしょう?

 これに関しては、一応公式見解らしきものをラカンは355頁で述べています。大文字のAがつくほうはグラフに今年も何回か書いた、といっていますから、やはり普通に《他者》でしょう。そしてもう一方について"l'autre concerne ce que j'écris d'un petit a."と述べていますから、こちらが対象aに関係することは確かなようです。うん、でも小文字の他者と対象aは、また違うし。というわけで、「一人の《他者》から」は確定しても後ろのほうは確定しないことになります。

 おまけに、この直後に触れられているように、De l'un à l'autreというニュアンス自体をラカンが放棄したわけではありません。このあと、とりわけ361頁あたりから、ラカンは今度はun Autreとl'Autreの区別に熱中しはじめます。ですので、やっぱり一方から他方の《他者》、という見方も出来なくはないのですが、困ったことに速記録版も手持ちの二つの海賊版も、どれもここから先の箇所では、正規版でいう363頁あたりのun Autreをun autreと表記しているのです。ああ、念のため、すべての箇所でというわけではありません。あくまでこの363頁以降からこの章末までぐらいのいくつかの箇所です。

 ま、そんなわけで、わたくしこれまで一応un autreで解釈して読んでいましたのですが、出たばかりの正規版に一応は則って詰めなおした解釈も考え直さなければならなくなった、というわけです。まあ、ごくごく一部のマニアックな興味しかない話、と言われればそれまでですが。

 ですが、マニアックな話、で終わらせておくのもなんなので、一応このテーマからある程度広めの視野を確保しておく努力はしてみましょう。という話を、では次回から。