いったりきたりをくりかえしちゃう?

 前回、前々回からお話ししている、ラカンセミネール第16巻ですが、ま、そういうわけで、結局このタイトル、訳せそうに見えて実は素直に訳せない、困ったタイトルだ、というオチになってしまうわけでした。。。

 うん、院生時代に哲学系の学生の中間発表を何度も聞かされたけど、あのときもこんな訓詁学に付き合わされて閉口したのだった、だいたい訓詁学はその突破口を開くことで見えてくる夢のかけらでもちらつかせておいてくれないとやってらんないよ、と、訳知り顔に愚痴った懐かしい記憶を思い出します。

 そんなわけで、まずはタイトルに関連した流れをもう一度説明しておきましょう。まず、《他者》は古式ゆかしい一者として想定されます。されますというか、想定可能だよね、と提示されます。この《他者》から斜線を引かれた《他者》を析出する過程と、対象aの析出過程、さらには主体の析出過程が同時進行である、というか、斜線を引かれた《他者》を、斜線を引かれたものとするのは、ペアノの自然数論の(多分ちょっと)インチキなぱくりをしつつ、ラカンが構想したように、《他者》のなかに、シニフィアンの宝庫としての《他者》の中には、空集合があるから、という事実を、まずは出発点とします。そして、この構成する空集合の反復こそが対象aそのものの運動である、ということになります。うん、この流れをタイトルらしく訳すのは、やっぱりちょっとしんどいですね。
 そうそう、これに関連して、ですが、正規版では343頁の2段落目、le structureで始まる段落の直前の文章を参照して頂けると良いのですが、これは他の海賊版、速記録版でも(ちょっと長くて恐縮ですが)


Comme j'y insiste très souvent, ça nous enserre de partout, et dans des choses qui, au premier abord n'ont pas l'air d'avoir un rapport évident, de sorte que cette structure qui est celle que je vise pour en partir aujourd'hui, qui est la structure originelle, celle que j'appelle d'un Autre, pour montrer où, par l'incidence de la psychanalyse, il va, pour révéler à tout autre, à savoir le a, cet Autre, qu'il ne fasse, si je puis dire, pour nous, pas de doute à notre horizon, cet Autre qui est justement le Dieu des philosophes, n'est pas si facile à éliminer qu'on le croit, puisqu'en réalité il reste stable à l'horizon assurément en tout cas là de toutes nos pensées, n'est évidemment pas sans rapport avec le fait que soit là le Dieu d'Abraham, d'Isaac et de Jacob(...)

 となっています。訓詁学の次は文献学か?とは言わないで下さい。手短に済ませます。

 さて、正規版とこちらで区切りの箇所がだいぶんに違うのは仕方なく、また区切りの箇所を入れる以上、文意を明快にするための語句をいくつか補わないといけないことも、これまた仕方ないとしても、その影響で、「この《他者》un Autreの構造が精神分析の影響によってどう変化するかを示すために」の後に来る「まったく別の、つまりは対象aを明らかにするために、」という文意が正規版からは消えてしまっています。
 わたくしにとっては、この一文はけっこう便利な文章で、ひとつには前年のセミネールのタイトルであった「精神分析的行為」というものの目的とこの「精神分析の影響」を重ねてみたい誘惑があり、もう一方で翌年のセミネールのテーマ、「精神分析の裏面」と関連づけることも出来る、と、ちょっと考えていたのです。
 後者に関しては、ちょっと説明が必要でしょう。上記の引用箇所の後半部分に関しては、正規版速記録版海賊版ともに大きな異同はなく、この一者が哲学者の神であり、それがアブラハム、イサク、ヤコブの神と関連する可能性が指摘されています。そして同じこの神、ヤハウェが第17巻ではこう語られています。


「単純なことです。ヤハウェがいたからなのです。あるディスクールが始まったからなのです。私が今年、精神分析ディスクールの裏面として切り離そうとしているディスクール、つまり主人のディスクールです。」(seminaire 17, 158)

 そう、ですから、このun Autreはある意味では主人のディスクールをつかさどるヤハウェ的な《他者》でもあり、それをある意味でどうにかしてひっくり返し、斜線を引き、主体のスペースを作るために精神分析はあることになります。それが何であるかは、前年の「精神分析的行為」が参照されるべきであり、その移行のメカニズムがなんであるかは、本年のセミネールが担当すべきものです。しかし同時に、精神分析の過程を通じて、あるいは現代文化の中では忘れ去られていた、ように見えなくもないこの主人のディスクールが蒼古的に復活再生産されているようでもある、という問題も残されることになります。その問題は翌年のセミネールで、全面的にとは言いませんがやはり主要なテーマ、あるいはその通奏低音として流れ続けることになります。前年で一方から他方へ移っては見たものの、翌年はまた他方から透けて見える一方が気になってくる、という、ちょっと忙しい往復運動、というふうに言ってみたもいいのかもしれません。おお、なんとなくオチらしくなってません?

 いや、ごまかすな、で、結局どう訳すんだ、って?

 うーん・・・
 まあとりあえず、それを考えようとすると前後のセミネールの流れも、またこのセミネールのラカンの意図も、いろいろ考えさせられて良かったなあ、じゃ、だめですかね。。。だめか。

 まあやっぱり額面通り「一なる《他者》から他者へ」で逃げるしかないですかねえ。